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聖者の行進  作者: いくらふじなみ
第二部 世界の扉
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第五話 真名

「さて! 難しい話はやめにして!カレンさんと、ご両親。恵子に聖仁。疲れたでしょう、ラウンジにいって休憩しませんか? お茶会の手配をしてありますので、お寛ぎください」


征人は、朗々とした声で告げた。

いつのまに、そんな用意まで整えていたのか。


「いやぁ、これは嬉しい! まさに今、熱いお茶が欲しかったところですよ!」


豊は、まるで旧知の友人と再会したかのような、弾んだ声で応じた。

歩もまた、晴れやかな笑顔で「本当に、ありがとうございます」と礼を述べる。


今日初めて顔を合わせたはずの三人が、まるで長年親交のあった家族のように笑い合っている。

そのあまりに自然で、不自然なまでの親密さに、恵子は苦笑を浮かべて見守るばかりだった。


だが、聖仁の心は、別の疑問に囚われていた。


(父さんは間違いなく、ミャンマーから通信していた・・・)


姿こそ、黒塗りになっていた征人。


普通なら、映っていたのは別人で、本人は実は近くに待機していた。

そして声は、録音か、別の場所からの通話だったと考えるのが自然だ。


(だが僕は、MOSでチェックしたんだ! 黒塗りの背後にいるのは、間違いなく父さんで、その通話が現地からだということを!)


自ら構築した《MOS》で確認した事実が、目の前の光景と結びつかない。


(普通なら、二十時間近くかかるはず……。ミャンマーからここへ、わずか三時間で……一体どうやって……!)


得体の知れない力を持つ父。


そのことには、随分前から気づいていた。

だが、それも自身の常識の範囲での想像だった。


どれほど並外れた力であろうと、自分の知る世界のどこかに、その説明はつくものだと思っていた。


その常識すら超える出来事が、今、何事もなかったかのように笑う父の姿となって、目の前にある。


父への畏怖は、一層強まっていた。


***


一行がラウンジへと足を踏み入れると、そこには夕暮れ時の喧騒とは無縁の、静謐な時間が流れていた。

有名ホテルの気品ある広々とした空間にもかかわらず、誰一人客がいない。


入口には執事風の女性が控えており、征人が近づくと、深く淀みない一礼を捧げた。


案内された席に、各々全員が着席する。

すると注文も無いにもかかわらず、複数の給仕たちが音もなく現れ、完璧な手際でティーセットを供し始める。


全ては征人が、事前に手配したものなのだろうか。

無駄を一切感じない、呼吸さえ合わせたような流麗な動きに、聖仁は驚いていた。


だが福崎の両親は、そんな違和感に気づく様子もなく、ただ目の前の贅沢なひとときに、満面の笑みを浮かべている。

恵子は表情一つ変えず、静かにその光景を見守っていた。


「それにしても……征人さんは、驚くほどお若い! 四十歳だなんて、信じられませんな! 六十七の私と並びますと、もはや親子にしか見えませんよ。ははは!」


豊が、弾むような声で笑い声を上げた。

表情には、相手に対する緊張感など微塵もなく、純粋な感嘆と喜びが満ちている。


「それでは!お義父さんと、お呼びするのが自然というものですな! ははは!」


征人もまた、朗らかな笑みを返して応じる。


カレンは、胸の奥がざわつくのを抑えられなかった。


穏やかではあるが、人見知りで頑固者な父。

そんな父が、これほどまでに屈託なく、陽気な笑みを浮かべている。


二十九年の人生で初めて見る、父の顔。


その笑顔を引き出したのは、かつてマスターと呼んだ男だ。

カレンは征人の、人の懐へ入り込む手腕に、畏怖と警戒心を抱く。


上品で静謐な空間に、華やかな笑い声が絶えない。


ティーカップの触れ合う音、穏やかな会話、そして甘美な余韻。

福崎家と清水家の間では、まるで旧知の親族のような談笑が続いていた。


ふと、聖仁は、父・征人と母・恵子が一瞬だけ視線を交わしたのを目にする。


「歩さん、カレンさん。式から披露宴までの長丁場で、私、凄く疲れてしまいました。良かったら私と一緒に、マッサージを受けに行きませんか?」


恵子が、艶やかな微笑みを浮かべて提案した。


「このホテルは女性専用のサロンがありますの。お付き合いいただけると、嬉しいのですけれど」


「まあ、素敵! ぜひ受けたいです。今日は一日気が張ってたから、肩こりが酷くて」


歩が弾んだ声で応じ、女たちの間には華やかな会話の渦が巻き起こる。

その様子を見計らい、征人が朗らかな声を重ねた。


「なんだなんだ? 女同士で仲良くして! では豊さんと聖仁。男同士でバーにでも行きませんか?」


「おお! それはいい!」


豊が声を弾ませた。


父が母へ送った合図に、聖仁は気づいていた。

だが、あえて何も言わず、静かにその流れに身を任せる。


(……こっちだって、聞きたいことは山ほどあるんだ)


***


征人と豊、そして聖仁の三人がバーへと辿り着く。

そこもまた、先ほどのラウンジと同様に静寂に包まれていて、客は一人もいない。


入口には、ラウンジでも案内役を務めていた執事風の女性が、音もなく立っていた。

征人が近づくと、彼女は深く、完璧な角度で一礼し、彼らを席へと導く。


着席と同時に、給仕たちが現れ、焼酎やウィスキーのボトル、そして水割りのセットを次々と運んできた。

すべてが先ほどと同じ、あまりに淀みのない手配だった。


(ここにいる執事も、給仕たちも……全員、父さんの手の者だ)


聖仁は、鋭い視線で周囲を観察した。


彼らの立ち振る舞い、無駄のない動き、そして何よりその体つき。

聖仁には、一般人のものとは思えなかった。


(それに、この客のなさも……父さんの手回しだろう。一体、父さんは……!)


聖仁の胸に、冷たい疑念と不安が渦巻く。

だが、そんな聖仁の不安と疑念をよそに、征人と豊はまるで長年の旧友のように、安価な酒を酌み交わし始めた。


「式ではよくわからない高級な酒ばかりだったので、焼酎はありがたい。んぅー、美味い! 格別ですな!」


豊が、心底楽しげに笑いながらグラスを呷る。


「どんな銘酒も、日本の焼酎には……毎日呑んでも飽きない、この澄み切った味には……んむ、美味い!敵わないでしょうな!」


征人もまた、陶酔したように笑い、酒を回していく。

聖仁を完全に置き去りにしたまま、二人の男は次第に、酒精の海へと沈んでいった。


やがて、二人は呂律が回らなくなってくる。


「んむぅ……ひっく! うぅー、おい! 聖仁! おまえぇ……ちゃんと飲んでるのかぁ? ひっく!」


「……すみません、父さん。僕は、最初から炭酸水です」


聖仁は、一切油断していなかった。

ここまで用意周到に手配している男が、隙だらけの醜態をさらすはずがない。

この狂騒すら、何かの企みではないのか。


「なにぃ?! 聞きましたか? 豊さん! この男は……素面で! お宅のお嬢さんをっ! ヒック。花嫁にしたようですよっ! いいんですかぁ!? 酒も飲めない小僧に、娘さんとられてっ!」


征人が、呂律の回らない声で、大仰に叫んだ。


「ひっく、うぃぃ……なんとぉ? それは……ゆるせぬぅ……ひっく……」


「うぅ……これは、私がカレンさんをもらったほうがっ……いいのではないでしょうかぁ? 年齢も! 私の方が、釣り合いがとれるしっ! お義父さんっ、娘さんは僕にくださいぃ……ひっく!」


征人は、顔を真っ赤にして、支離滅裂な理屈を並べ立てた。


「征人さんっ! 娘を……宜しく、お願いしますぅ……」


豊もまた、力なく応じる。


「ぶははははは! あーっはっはっは!!」


「あははははは!!」


二人の男が、夜の静寂を切り裂くような、野太い笑い声を上げた。


油断のならない征人はともかく、豊の方は完全に出来上がっており、今にも倒れそうだった。


見かねた聖仁が、二人の間に声を挟んだ。


「……父さん。福崎のお義父さんを、これ以上呑ませたら危険です。そろそろお開きにしませんか?」


「うぅ……まぁ、まてぇ。聖仁ぅ……まだまだ、豊さんと話したいことが、あるのだぁ……」


征人は、ふらつく身体をテーブルに預けながら、子供のように不満げな声を漏らした。


「……いい加減にしてください。貴方もふらふらじゃないですか。お義父さんも、もう眠ってしまいましたよ」


聖仁は、呆れたような、どこか冷めた視線を父に向けた。


先ほどまで畏怖を募らせていた父が、こうも醜態をさらすとは。

果たして本当に酔っているのか? それとも、これもまた演技なのか。


「眠っててもいいからぁ……豊さん、聞いてくださいよぉ……。私はねぇ……世界中に愛人がぁ二十人は、居るんですよぉ……ひっく」


征人は、呂律の回らない口で、とんでもないことを口走った。


「聖仁の母も……その一人でしてねぇ……ひっく」


その言葉が鼓膜を震わせた瞬間、聖仁の全身を、熱い衝撃が駆け抜けた。

血が沸騰し、視界が赤く染まるような感覚。


(……今、なんて?!)


義父に、最も言ってほしくないことを……!

征人は、あろうことか、その相手に向かって口にしたのだ。


聖仁は、白く指の関節が浮き出るほどに、強く拳を握りしめた。

喉元までせり上がってくる怒りを、必死に、理性の檻の中に押し込める。


「ふへぇ? 愛人がそんなにいっぱいぃ? 征人さんは、心身ともにぃ、お若い! すごい……ぐぅ……ぐぅ……すぴー……」


豊は、深い眠りに落ちた。

先ほど投下された爆弾も、豊にとっては夢の中の出来事だろう。


聖仁は、豊が完全に沈黙したことに、微かな安堵を覚えた。


同時に、父への、計り知れない怒りが胸の奥で黒く渦巻いている。

彼は最後の一片の理性を振り絞って、征人に告げた。


「……父さん。部屋を取ってあります。福崎のお義父さんは僕に任せて、寝室でもうお休みください」


「うぅ~いやだぁ! まだ寝たくないぞぉ……!」


征人は、子供のような声で駄々をこねた。


「それになぁ、聖仁!お前に、まだ結婚祝いを贈ってないじゃないかぁ……ひっく」


征人は、呂律の回らない声で、食い下がるように言った。


「プレゼントを……持ってきたんだよぉ……ひっく」


「おまえぇ……結婚のときぃ、戸籍謄本を取ったろぉ? そのときぃ、あたまがいいこちゃんなキミ! きづいたんじゃないかなぁ? わたしの征人ってなまえが、通名だってさぁ……えへへぇ」


聖仁の全身から、怒りに燃えていた熱が瞬時に奪い去られた。

代わりに、背筋を駆け上がるような、凍てつくような戦慄。


(……この男、間違いなく、酔っていない!)


聖仁の表情が変わったのを見て、征人は突如、冷静な口調に切り替えた。


「君は調べたはずだ。私の本当の名前は、何なのかをね」


声から、酔いの甘さが消える。

低く、重厚で、一切の揺らぎもない声。


「だが役所では調べようがないし、恵子も教えてはくれなかっただろ? それでもその後、執拗に探っていると聞いたぞ。バカだな、素直に私に尋ねれば良かったんだ」


「聖仁、お前になら教えるさ……私の後継者なんだから」


征人は宣言し、一枚のカードを差し出す。


「ほら、結婚祝いのプレゼントだ。私の名刺だよ。大事にしろ。世界中でこれを持つ者は、片手の指ほどしかいない」


緊張からか、聖仁の手は僅かに震えをみせる。

手渡されたそれは、名刺というよりは、もはや一つの宝石に近い質感を持っていた。


薄く削り出された工業用のダイヤモンド。

その中心には漆黒のセラミック・プレートが埋め込まれ、プラチナだろうか、銀色の文字が二段に分かれて刻まれている。


『Lucius von Crawford』

『Custos Orbis』


「……ルキウス・フォン・クロフォード……クストス・オルビス……クロフォード?! まさか!」


その名を口にした瞬間、聖仁の脊髄を、凄まじい雷撃が貫いた。


(クロフォード……!)


それは、長年都市伝説として語り継がれてきた、世界を裏から支配する一族の名。

ネット上の稚拙な陰謀論に引き合いに出される、実体のない空想の産物。


だが、目の前の男が放つ、あまりにも重厚で、圧倒的な威圧感。

その異様なまでの存在感を前にして、聖仁は即座に理解した。


目の前で笑う、この男こそが、あのクロフォードなのだと。


対抗しようとしてきた父親は、想像もできないほど強大で、巨大な存在だった。


聖仁の全身を、底知れぬ畏怖が包んだ。

これまで想像していた父の力は、その一端に過ぎなかった。


だが――それと同時に、聖仁の胸の奥底では、未知の熱が脈動していた。


畏怖と共に湧き上がる、得体の知れない高揚感。

その熱の正体を、聖仁自身も掴めずにいた。


聖仁の様子を見て、征人――ルキウスは、不敵に笑った。


「……聖仁。おまえ、いま喜んだろ?」


低く、愉悦に満ちた声が響く。


「ふふふ、やはりお前は、最高の逸材だな。巨大な相手を前に、恐怖よりも興奮が勝つか!」


ルキウスは、豪快に笑った。


「私はドイツ人の母と、日本人の父のハーフでね。国籍はドイツなんだよ。だから日本では、通名で問題ないし、まぁあんまし『僕はエライ人なんです!』って自慢するのも馬鹿っぽいだろ? だからなるべく秘密にしてるんだ。ははは!」


彼は、まるで今日のご飯の話でもするかのような軽やかさで、己の出自を語った。


手のひらにのせた、重厚な輝きを放つダイヤモンドの名刺。

聖仁はそれをじっと見つめ、口を開いた。


「……驚きました。実在しているんですね、クロフォードの一族は!」


言葉を切り、彼は刻まれた文字に目を落とす。


「この下の『クストス・オルビス』というのは……言い回しからして、ラテン語でしょうか? 意味は分かりませんが……」


息子の関心に、ルキウスは喜びの表情を浮かべた。


「相変わらず物知りだな。その通り、ラテン語だ。意味は『世界の守護者』だそうだ。……クロフォード家の当主に与えられる称号さ」


その言葉を聞き、聖仁は顔を上げ、ルキウスを凝視した。


「……当主?! 父さんは、クロフォード一族の当主なのですか?!」


思わず声を荒げる、聖仁。

ルキウスは、慌てて両手を振り、続いて人差し指を口元に当てる。


聖仁はハッと我に返り、声を静めた。

その様子を見て、ルキウスは穏やかに語りかける。


「当主からのプレゼント、気に入ってくれたかな? だが今みたいに、大声で話したり、見せびらかしたりするなよ。照れるから……ってのは冗談だ。クロフォード家の人間とわかれば、その関係者も拉致や暗殺の対象になる。なかなか窮屈なものだぞ? 常に護衛がつく生活はな。知らない方が、おそらくずっと幸せさ」


聖仁は、宝物でも手にするかのように、その名刺をじっと見つめる。

指先に伝わるダイヤモンドの冷たい質感と、刻まれた銀色の文字が、現実であることを突きつけてくる。


ルキウスは、そんな息子の様子を慈しむような微笑を浮かべながら、グラスに残った焼酎を飲み干した。

空になったグラスをテーブルに置くと、彼は並んだ空の酒瓶を眺め、独り言のように呟いた。


「日本の焼酎は美味いが、度数が弱いな。なかなか酔いが回らん」


ルキウスが、片手を軽く上げる。

すると合図を待っていたかのように、執事と給仕たちが音もなく現れ、テーブルの片づけを開始した。


去り際の執事に、彼は別の用意をと、短く告げる。

執事が足早に退出し、間髪入れず、新たなウィスキーのボトルとグラスセットが運ばれてきた。


「……聖仁。お前、酒は飲めるのか?」


ルキウスが問いかける。


「……少しなら」


聖仁の答えを聞くと、ルキウスは自身のグラスへウィスキーを半分ほど注ぎ、氷と水で静かに割った。

そして別のグラスには、ただ水を満たし、そこにウィスキーを一滴だけ、儀式のように垂らした。


一滴の琥珀色が水に溶け込み、微かな香りが立ち上る。

ルキウスは、その一滴のウィスキーを混ぜたグラスを、聖仁へと差し出した。


「……今日は気分がいいな。誰かに私の過去の話でも、聞いてほしい気持ちだ」


ルキウスの声は、低く、重々しく響いた。


「……福崎さんは寝てしまったし、代わりに聖仁、お前が聞いてくれるか? 私の昔話を」


真名を明かした衝撃もさることながら、聖仁は直感する。

これから語られる話のほうが、おそらく本命なのだと。


「……僕で宜しければ、お聞きします」


聖仁は、静かにその言葉を受け取った。


「さて、何から話そうか。……私が、君の母を含めた二十人以上の側室を持ち、単なる愛人でいえば百人を超えたあたりから数えるのをやめている……そんな話をしようか? 君の嫌いな、好色家になった経緯からでも始めようか」


ルキウスは、まるで明日の天気を語るような軽やかさで、その話を口にした。


豊が眠りこけてしまうほどの量を飲んでいながら、父は微塵も酔う様を見せない。

その話しぶりは、驚異的な体力をも予感させた。


聖仁の胸には、母が愛人に過ぎないと言われた怒りが、なおも残っていた。

それを抑え、必死に冷静さを保つ。


「……興味があります。お聞かせ願えますか?」

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