後日談・吾妻仁伎の日常
起床し、顔を洗い、制服に着替え、朝食を作って食べる。ケータイのアラームがあれば自力で起きるし、スクランブルエッグを作ってトーストを焼くくらいなら、全部自分でできる。
先月オレは中三になったから、これくらいのことはするのだ。母さんは八年前に他界したし、父さんはいわゆる『ネグレクト』ってやつ。昔から父さんはオレに関心がなかった。今さら気にしてないけど。
◯
それにしても授業は退屈だ。歌なんてやってられねぇ。オレ、音痴だって自覚あるし。
音楽室でクラス合唱中、オレは口パクさえもせずに先生のことを考えていた。目の前にピアノがあるからかもしれない。
簡単な練習曲を少し弾いてみせただけで、先生はものすごく喜んで、頭をぐるぐる撫でて褒めてくれる。その嬉しそうな顔がすごく可愛くて、また褒めてもらいたいから練習する。先生は生徒のやる気を引き出すのが上手だ。今日も昼休みにこの音楽室のピアノでちょっと練習しよう。
白い指揮棒が踊る午後、窓の外を眺めながら昼休みの計画を立てていた。
◯
授業が終わると、女子たちはなぜかピアノの周りに群がっておしゃべりを始める。一人の女子がピアノを弾き始めると(たしか中本ってやつだ)、オレは聴いたことのあるそのメロディーに引き寄せられた。
あの曲だ。先生と再会したあの日、先生がすごく楽しそうに弾いてくれたあの曲。
「それ、なんていう曲?」
中本はピアノを弾く手を止め、驚いたような顔でこちらを見ている。なぜか周りの女子たちもおしゃべりを止めて同じようにこちらを見てくる。
「......さ、Summerっていう曲だよ」
「サマー?」
あの日先生が弾いてた曲は、サマーという曲らしい。たしかに夏っぽい雰囲気だな。
「吾妻くん、この曲好きなの?」
髪を二つに結んだ女が話しかけてくる。名前が思い出せないけど。
「まあ、そんな感じ」
「いい曲だよね! わたしも好き!」
「もう一回弾いてよ、中本さん! 吾妻くんが聴きたいって」
「う、うん」
先生の演奏には劣るが、中本もなかなかピアノが上手らしい。
弾き終わると、自然と拍手が起きた。
「中本、弾いてくれてありがとな」
そう言うと、中本は顔を赤くした。いつのまにかクラスの男子たちもピアノの周りに集まっていた。
「クラスのアイドルが仁伎に赤面してるとこ、見たくなかったなー!」
茶化すように言うやつは倉田。
「仁伎のこと好きなんじゃね? 二人付き合っちゃえばぁ〜?」
こいつはクラスのお調子もので、ちょっとウザい。
なんだかイラっとしたから、オレは倉田の耳元で囁いた。
「オレは大人のオンナにしか興味ねーし」
そう捨て台詞を吐いてから、廊下へと出た。
「ちょっと倉田、仁伎くんなんて言ったの!?」
音楽室はしばらくざわついていたらしい。
◯
あと三分で四時半になる。先生、早く出てこないかな。
いま先生はレッスンルームで仕事をしている。今日は四時半で上がりだって言ってた。
レッスンルームの並ぶ廊下で待つこと十分、ようやく先生が楽譜を抱えて出てきた。
先生の隣には、オレより五つ下くらいの小学生のガキんちょがいて、先生は笑顔でそいつと話している。新しい生徒だ。
「琉生くんは音楽の才能がありますよ。ピアノ、好きになれそうですか?」
「うん! ピアノ楽しいよ」
「よかった。楽しいのが一番ですね」
「先生も教えるの上手だしね!」
「わ、ありがとうございます。そんなこと言ってくれるの琉生くんだけですよ」
ーーなんか、イライラする。
「先生!」
オレは先生をこちらへ振り向かせた。
「あ、仁伎くん」
「オレと約束してたでしょ。行こ」
手を引いて先生を連れていく。小学生から引き離すことに成功した。
「先生、ばいばーい!」
「琉生くん、また来週会いましょう!」
ガキんちょは無邪気に手を振っている。先生を連れて、オレは廊下を歩き続けた。
◯
スイートピー、かすみ草、アマリリス。店内は上品で魅惑的な花の香りに満ちている。先生にはこういう場所が似合う。
オレたちは教室から十五分程歩いたところにある花屋に寄っている。二人で店内を眺めていると、いつもの店員が声をかけてきた。
「こんにちは。今日もマーガレットを?」
「はい。数本ください」
店員はマーガレットを選び始めた。
先生は釣鐘草が気に入ったらしく、香りを嗅いでいる。鐘のような形をした、藤色やピンクや白の花。素朴な可愛さが先生みたいだ。
「花を見てると、家にも一輪飾りたくなっちゃいますね」
「先生、これ欲しいの?」
ーー先生に花をプレゼントしたい。
「店員さん、じゃあこの釣鐘草もお願いしま「ではそこの見目麗しい女性店員の方。この釣鐘草を色を織り交ぜて素敵なブーケにしていただけますか?」
ーー身の毛もよだつ声がした。
「奏さん、こんなところで偶然ですね! 奏さんも花を?」
いつのまにか店内に背が高いだけが取り柄の男がいた。ーーまあ、顔も悪くないといえば悪くない、というかイケメンだし、なんか華があってゲーノージンみたいな雰囲気がしないでもないけど(そこらへんは認めてやろう)。
奏もとい悪魔は、現在もしれっとした顔をして毎週先生のレッスンに通っている。三か月前、先生はこいつにハートを奪われかけたというのに、結局はコイツを許した。奏が自分の生徒でいる限りは、あのときされたことは水に流すべきだと言っていた。ーーお人好しすぎる。
「僕は一輪の赤い薔薇を購入しにきたんです。今晩、新しいターゲットの女性に初対面する予定なので、お近づきの印にプレゼントさせていただこうと思いまして」
ケッ、ほざいてろ。オレの仲間たちがおまえとターゲットの接触を阻止することになってるからな。
「ところで仁伎くん、そんなに僕を見つめないでください。......照れます」
「睨んでんだよ!」
「僕はもはや十和子先生のハートを頂こうなど考えていませんよ。こうしてまた次のミッションを与えられていますし。諺でも昨日の敵は今日の友というじゃないですか。これから僕たち、仲良くしましょう」
「おまえの言うことは信用できねぇ」
先生は何だか居心地が悪そうだーー。奏と話しているうちに(意にそぐわないが)、店員は包んだマーガレットと釣鐘草を持ってきた。
オレは釣鐘草の代金も払うつもりだったのに、先生はオレのマーガレットの分も払わせてくれと言って聞かない。二人から代金を差し出されて困惑気味の店員。ーー前もこんなことあったようなーー。
「それなら、ここは間を取らせていただきましょう」
次の瞬間、オレの金を差し出している右手を動かせなくなった。ーーいや違う、身体全体が動かないーー。
奏の仕業だとすぐ分かった。横目で見ると先生も金を出したままマネキンのように固まっている。
「花屋の美しい娘さん、釣鐘草とマーガレットと薔薇の分を、コレでお願いいたします」
奏は笑顔で店員にカードを握らせていた。
「さて、十和子先生。男が女性に花を贈る意味、お分かりですよね?」
奏はレジに置かれていたハサミで釣鐘草の茎を短く切って、その紫の花を先生の耳元の髪に挿した。
「もちろん、それは自身の気持ちを伝えるためです。釣鐘草の花言葉といえば、『誠実』とか『不変』、そして『感謝』です。......悪魔としての仕事を果たしたその後も、こうして僕を変わらず受け入れてくれていることに対して、僕はあなたに感謝しています。こう見えても」
奏は動けない先生の髪に触れたーー。
「僕は泣く子も黙る悪の化身ですが、任務の終わったこれからはあなたと誠実に付き合っていきたいと思っているんです。そして先生は今のまま、変わらずに僕と接してくださればいい」
動けないし喋れないのが腹立たしい。こいつにいいとこ持っていかれてたまるか。
すると、奏は優しげな微笑(こいつのウザい演出だ)を崩し、いつもの調子に戻った。
「......とまあ、今の僕の言葉を信じるかどうかは、あなたの好きなように。並木十和子先生」
奏は店内の薔薇の花束から一輪を抜き取り、「ではみなさん、素敵な夜を」と言って、人々の行き交うメインストリートへと消えていった。
◯
シロツメクサの咲き誇る丘のうえに、母さんは眠っている。
ーー黄昏時だ。温度を感じそうな程に暖かそうで強烈な朱色、オレンジ、黄色が美しく溶けこんだ夕焼けが、母さんの墓を照らしていた。
先生は墓の前にマーガレットの花束を供えて、手を合わせた。
数十秒経っても、先生は手を合わせ続けている。オレはまるで高尚な絵を見ているような感覚だった。その夕焼け色の横顔はどこか神聖さを帯びている。オレはその光景に、畏敬の念さえ感じた。
今日は母さんの死んだ日だ。だからこんな気分にさせられるんだ。
「母さんは、キューピッドだったんだ」
先生は手を合わせるのをやめて、オレを見た。
「仁伎くんはお母さんと同じものになろうとしているんですね」
「そうなんだ。......永枝が言うには、すごく腕がよかったって。母さんの縁結びで今も幸せに暮らしてる夫婦がたくさんいるって」
「縁結びしてもらったひとたちは、マギーさんのこと忘れられないでしょうね」
先生は立ち上がり、オレに場所を譲った。オレは母さんの前で静かに手を合わせる。
ーー母さん、オレには今、大切なひとがたくさんいる。大切すぎてときどき不安になるほど。
先生との出会いは母さんがくれたんだ。母さんがよく知ってるとおり、オレは今も先生が好きだし、これからもきっとそうだよ。
夕日に染まる Maggie Agatsuma の文字を眺めていると、先生が隣に並んだ。
「仁伎くん、今日はお墓参りに一緒に来させてくれてありがとう。ずっとマギーさんに会いに来たかったんです。伝えたいこともあったし」
「伝えたいことって何? 先生さっき長いあいだ母さんに何を言ってたの?」
そう聞くと、先生は頬を赤く染める。
「......に、仁伎くんには内緒です」
ーーなんかよくわかんねぇけど、とりあえずか、かわいいーー。
母さんの墓も、マーガレットの花束も、シロツメクサの草原も、遠くの街並みも、先生の頬も、そしてオレの手も、すべてが夕焼け色だ。地上のすべてのものに等しく降り注ぐ夕日の光に、オレは安堵した。




