クリティカルヒット!
スランプだ。大好きなはずのピアノが楽しくない。まるで五線譜のようなモノクロの世界に取り残されたみたい。音符の羅列から、カラフルな音色を想像することができなくなった。
「唐西常人と藤嶋侑紀は、不倫に終止符を打ちました」
防音設備のととのった個室で、悪魔は言った。
先程侑紀ちゃんから告げられた。レッスンを辞めることにすると。わたしはもう、侑紀ちゃんの先生ではない。
「藤嶋侑紀の存在が家庭崩壊を招きましたからね。唐西常人は家族のもとに戻ることとなりました。これから彼は苦労しますよ、壊れた家族の絆を修復するのですから」
わたしは何故こんなに気落ちしているの?もしかしたら二人は幸せになれるかもしれないと期待していたから?
「ですが藤嶋侑紀は自ら将来の希望を築きました。いつか時が二人を許すとき、共に生きるという希望です」
ケアハウスの話は永枝さんから聞いた。
二人はそうするしか結ばれる道はないのだろうか。好き同士なのに。愛し合っているのに。わたしが二人のためにできることはないだろうか。
せめて密会の機会をつくってあげたい。侑紀ちゃんを教室に引き止めて、今までどおりわたしが彼女を担当していることにする。けれど実際は、内密に唐西先生に代わってもらい、二人きりの時間をつくる。
「並木先生が考えていることは大体察しがつきますが、第三者のあなたがすることは余計なお世話というものですよ。そういう要らない優しさが、人を傷つけることもあるものです」
「そんなの二人に提案して返事を聞いてみなきゃ分からないじゃないですか」
「大切な二人のためを考えてのことでしょうが、あなたのすることで唐西常人の奥さんと息子は不幸になるのかもしれないのですよ? 他人のことならどうでもいいのですか」
「それは......」
分からない。何が皆のためになるのか、何が皆の幸せなのか、何がベストなのか、分からない。
「......並木先生のおっしゃることは矛盾しています。このあいだ、何が二人のためになるのかは、二人だけが決められることだと言いましたよね。人は、他者にとっての幸せが何かを決めることはできないと。そう言いながら、あなたは周りの人間のためになることを必死で考えて行動しようとする。矛盾しています」
ーー傲慢なのは奏さんじゃなくて、わたしのほう?
「......僕は、藤嶋侑紀の魂は奪えないと悟りました。とりわけ今の彼女のハートは、強く気高すぎる。エネルギーに満ちていて、僕の力でも跳ね返されてしまうでしょう。......彼女はお互いを想い合う気持ちはどんなことがあっても消えることはない、と強く信じている。もう会うことさえも簡単には叶わないのに」
もう何を言われているのか分からない。何が正しいことなのか分からない。
「ですが僕は何かしらの成果を上げなければならないのです。というわけで、代替案を決行します。......これが、僕の切り札です」
奏さんの手が伸びてくる。とっさに避けようとしたが、わたしの身体は目に見えない誰かに押さえつけられているかのように動かない。
奏さんの手が、わたしの左胸に触れたかと思うと、次の瞬間には貫通していた。身体の中を探られている感覚。ーー何が起こっているの?
気分の悪さを感じたとき、奏さんが手をぬるぬると引き抜いた。その手の中にはーー。
「これがハートです。とても綺麗なブルーですね」
『ソレ』は、奏さんの手の中でどくどくと脈打っていた。
「並木先生には、もうハートが無い。『心』が無いバケモノです。......僕と一緒ですね」
頭がクラクラする。ひどい目眩。
「あなたはもう僕たちの仲間です。人々の悪意を増長し、あらゆる不幸を創造してあげてください」
もうきちんと姿勢を保っていられない。傾いたわたしの身体は奏さんの腕に支えられた。
「......ッ先生!」
そのとき、ドアが勢いよく開く音と誰かの声がした。
ーー意識が遠のいてゆく。
わたしが気を失う間際に見たのは、ブロンドの髪の細腕の少年が悪魔の美しい顔を力の限り殴りつける光景だった。
◯
「ニッキー」
「なあに?」
「ニッキーはもう七歳になるんだから、甘え上手も卒業しなきゃならないんじゃない?」
「え〜、イヤだ!」
「だっこするのもだんだん重くなってきたし」
「だっこしてもらうの先生だけだし、いいじゃん!」
「わたしこう見えて病人なんだけどな〜」
売店から病室へ帰ってきた途端、わたしにへばりついて離れない七歳の少年。
「ほんと、ニッキーは十和子のことが好きすぎるわね」
わたしの隣のベッドではブロンドの髪の女性が、わたしのもらったお見舞い品の林檎に噛り付いている。
「十和子、これ瑞々しくて美味しいわ。ありがと」
「ねえママ、今日は先生と一緒に寝れる?」
「残念だけど、ノーよ。お父さんが迎えに来るはずだから」
「やだ! ぼくもここに泊まる!」
「だめ。帰りなさい」
「おとうさんやだあ! おかあさんと先生のところにいたいんだよお!」
マギーさんは駄々をこねる息子を困ったような顔で見つめながら、言った。
「......ねえ十和子、提案なんだけど。将来ニッキーをお婿さんにもらってくれないかしら?」
「おむこさん?てなに?」
「え!?」
マギーさんはジョークを言うのが大好きだけど、今は本気のトーンだったので笑っていいものか困った。
「十和子になら安心してニッキーを任せて、あっちに逝けるわね」
今度は冗談めかして笑った。
ーーそんなこと、冗談でも言わないでほしい。
けれど、彼女はわたしに抱きつくまだ幼い我が子の顔を愛おしそうに、幸せそうに見つめているから。
わたしは心に宿った小さな黒い雲を吹き飛ばして、小学生男児にプロポーズした。
「ニッキー、わたしたち大人になったら結婚しよう!」
「え!! けっこん!?」
「あらぁ、女の子に言わせちゃいけないのよ〜、ニッキー」
「......!」
すると突然少年はわたしから離れ、一目散にお母さんのもとへ飛びこんでいった。
「そんなに嫌がらなくても......」
「ね? この子可愛いでしょ?」
我が子をその腕に抱きとめて、太陽のような満面の笑顔を見せる彼女。
三人だけの316号室の病室には、爽やかな五月の風が吹き抜けている。
◯
懐かしい夢から目覚めた。三人の穏やかな日々が崩れ去る前の夢。
「先生? 先生!!」
声のするほうに目を向けると、ベッドの傍らで仁伎くんが心配そうにわたしの顔を覗きこんでいた。
「大丈夫!? 気分悪くない?」
「う、うん。大丈夫」
そうだわたしは、奏さんにハートを奪われてーー。
「よかった......。先生の胸にハートを戻すのがもう少し遅かったら、先生は......」
「ここは、病院?」
周りを見渡すと白一色。病室のようだった。ーー夢の続きみたい。
「うっ、う゛ぅ〜......」
隣で呻く声が聞こえたかと思うと、仁伎くんが両手で顔を覆っている。目が隠れて見えないけれど、いま、頬をひとすじ水が伝ったーー。
「仁伎くんなんで泣いてるの?」
「な、泣いてなんかねぇし! ......ひっく」
大袈裟かもしれないが、もしかしたらわたしはあのとき生死の境をさまよったのかもしれない。わたしがこうしてまた目を覚ますことができたのは、仁伎くんのおかげなんじゃないか?仁伎くんがわたしのハートを奏さんから取り返して戻してくれたからなんじゃないか?
「もしかして、わたしが死ぬかと思ったの?」
「オレっ、オレは、先生がこのまま起きなかったらどうしようかと、先生までオレを置いていなくなっちゃうのかと思ったぁ〜う゛わあ゛〜!」
仁伎くんはもはや号泣だ。
「な、泣かないで仁伎くん」
背中をさする。
「大丈夫。わたし仁伎くんのおかげで生きてるよ!」
顔をぐしゃぐしゃにして、目をごしごしこすって溢れでる涙を拭う仁伎くん。子どもの泣き方だ。
愛おしい気持ちがこみあげてくる。わたしのこと心配して、不安だったんだ。
「先生ごめん。......先生のハートが狙われるとは思わなくて、油断してて、本当にごめん」
「そんなの、いいから」
謝らなくていいから泣き止んで。わたしも切なくなるから。
しばらく背中をさすっていると、落ち着いてきたのか、静かになった。
「オレ、先生に今伝えなきゃいけないことがある」
「なに?」
突然何を言われるんだろうか。
「先生、21のとき三ヶ月病院に入院したことがあるでしょ?」
「な、なんで知ってるの?」
そんなことは仁伎くんに話していないはず。
「それで、先生は同じ病室にいた女性とその息子と親しくなった。その女性が亡くなったとき、七歳の息子は悲しくて悔しくて仕方がなかった。母親が亡くなる前、最後に会ったときに学校でいやなことがあったってだけで母親にも冷たくしちゃったから。何で最後にあんな態度を取っちゃったんだろうって後悔しつくして泣いてるオレに、先生は言ったんだ」
いま、『オレ』と言った?
「母さんは今、病室のベッドから引越ししてオレのハートに住んでるんだって。だから、心の中で母さんに謝れば伝わるよ、マギーさんなら、当たり前に笑って許してくれるよって」
昔の思い出が蘇るようだ。
「......ニッキー?」
「先生、気付くの遅すぎ」
ニッキーは苦笑している。
「覚えてる?先生はその頃専門学生で、ピアノ教師の卵だった。でも落ちこぼれだったから本当に先生になれるか分からないって言うから、今のうちに呼んどこうってなって、オレは病院のおねえさんのことを先生って呼ぶようになった」
「お、覚えてる.....。てか、あんなに幼かったのに変わりすぎだよ! 髪だってニッキーはブラウンで短かかったのに、今は金髪で長いし......。もしかして染めてるの?」
「うん」
中学生なのに......。あの可愛いニッキーはヤンキーに成長したというわけか。
それにしても変わりすぎである。
「背ものびたし......。ニッキー、男らしくなったね」
「そう?」
頬を染めたニッキーは、照れ隠しなのか目線をそらす。
ーーやっぱり可愛いなあ。
すると、その心の声を読まれたかのようなタイミングで目が合って、仁伎くんは上目遣いで言った。
「......ねえ、先生、オレのこと好きでしょ」
「......ん?」
「だって先生のハートの色、オレのとそっくりだった。青にもいろんな青があるけど、あの晴れ渡った空みたいなブルーは絶対同じ色だった!」
う、うう.......。弱味を握られてしまったようだ。
「先生、オレのこと好きなんでしょ? そろそろ白状しなよ」
どんどん仁伎くんが距離を詰めてくる。彼の顔は女子高生のパンツを盗撮した変質者のごとくニヤつきまくっている。
こうなったら、わたしの取るべき行動はたったひとつしかない。
がばっ!と勢いよく仁伎くんを思い切り抱きしめた。彼の座っている椅子が揺れる。
ーーアラサー女が男子中学生に言葉で言うにはちょっと恥ずかしかったから。
「......白状した結果が、コレなんですけど......」
「......。」
仁伎くんは黙っている。この沈黙は何を意味する?
わたしの腕にすっぽり埋まって固まっていた仁伎くんだがーー。
状況は一変した。
突然、一気に仁伎くんの体重がのしかかってくる。わたしはベッドに押し倒された。男の子の身体がわたしの身体に覆いかぶさる。彼の顔をすぐそこに仰いでいる。
「......先生、びっくりした?......オレも男だからね」
わたしを見下ろす仁伎くんはニヒルな笑みを浮かべている。
「七年前は恥ずかしくて言えなかったこと、今度こそオレから言わせて。オレが大人になったら、結婚して?」
わたしはまだ夢の中にいるのだろうか?
仁伎くんの瞳に吸い込まれそう。このキラキラ輝く蒼い宝石を、わたしだけのものにしたい。
「......あー、でもやっぱ、大人になるまでオアズケは、いやかも」
「!?」
仁伎くんの言葉に呆然としていると、赤い舌で首筋をぺろりとひと舐めされた。脳にぴりっと電流が走ったみたい。
金色の髪が肌をくすぐってこそばゆい。かかる吐息はなまあたたかい。
それからゆるゆると腕を絡め、足を絡められる。仁伎くんの体温はわたしよりも熱い気がした。彼の細い指がわたしの鎖骨をなぞる。わたしたちが身うごきするたび、純白のシーツがくしゃりと波打つ。
「先生。......オレのこと忘れたなんてもう言わせないようにしてあげる」
そして、背徳感たっぷりのくちづけを交わした。




