悪魔が笑う
東京では珍しく、窓の外では雪が降っている。
侑紀ちゃんと唐西先生の初デートから、三ヶ月が経った。この間にも、二人は秘密かつ禁断のデートを重ねていた。
今、わたしの隣では、黒髪の少女がバッハの『メヌエット』を弾いている。
「侑紀ちゃん、上手! 上達が早いですね」
「でもこの曲、装飾音符が難しくて」
「確かに、指がカラぶってるときがありますね。じゃあそこだけ練習してみましょう」
侑紀ちゃんは相変わらずレッスンに一生懸命だ。最初の頃に比べて格段に上手くなっている。
侑紀ちゃんが練習しているのを見守っていると、突然、個別レッスンルームのドアが開いた。
「先生! ちょっと!」
顔を見せたのは仁伎くんだ。
「仁伎くん、今レッスン中ですよ」
「ちょっとだけだから!」
必死な形相で手招きしている。その表情を見てわたしは席を立った。
仁伎くんに、出たすぐのところの廊下で耳打ちされる。
「長い話はあとででいいんだけど、トラブル発生だ」
「え、一体何ですか?」
「奏が仕掛けてきた。常人と侑紀の密会中写真を奥さんに送りつけやがった」
◯
侑紀ちゃんが帰った後、レッスンルームで仁伎くんから話を聞いていた。
「誰が盗撮したのか知らねーけど、二人が室内でキスしてる写真らしい。それを、奏が常人の奥さんである唐西莉乃のスマホに送りつけたと」
ーーなんということだ。
二人は今、窮地に立たされてしまっている。
「まあ、常人はそろそろ奥さんに打ち明けようとしてたらしいし、二人は乗り越えるべき試練が早めに来ただけだと思ってるかもな」
それを聞いて、安堵したし、驚いた。
二人は、世間では不倫と呼ばれてしまうものを不倫ではなくそうとしている。
つまり、奥さんとの離婚。
ーー果たして上手くいくのだろうか?
「上手くいかないでしょうね」
わたしと仁伎くんしかいないはずの空間に、突如第三者の声が響いた。
声のほうを振り返るとーー。
「二人の物語は、クライマックスを迎えようとしているということです」
いつのまに部屋に入ってきたのか。
ピアノに格好つけて寄りかかっていたのは、見知った悪魔だった。
「クソ悪魔、しゃしゃり出てくんな」
「常人くんは本当は家族思いな男なんです。本当に奥さんと別れることができるのでしょうか? ましてや、まだ幼気な愛する自分の子どもとも?」
「常人は覚悟はできてる」
「本当にその覚悟は揺らがないと?......仁伎くんはまだ子どもで分からないかもしれませんが、現実は厳しいのです。離婚できたとしても子どもの養育権は恐らく母親のものでしょう。子どもとの面会も許されないかもしれない。それに高い慰謝料も払わなければなりませんし、もつれこんだら裁判沙汰」
『不倫』という言葉が、重くのしかかる。
「僕、正しいこと言ってますよね?不倫なんて、イケないことなんですから」
「唐西莉乃だって同じことをしたんだから、相殺される」
「しかし、そちらの証拠は何もありません」
奏さんがキッパリと言い切った。
「......恐らく、離婚するまでには至らないでしょうね。となると、バレてしまった以上今までのように逢瀬を重ねることはできなくなるでしょう。現実的なことを考えれば、それこそがまだうら若い藤嶋侑紀のためにもなることです。常人くんとの将来は、辛いことが多く待ち構えているのですから。彼らにとっては、これで良かったのです」
それが、侑紀ちゃんのため?
わたしはその言葉に、違和感を感じた。
一体何様のつもり?
「何が侑紀ちゃんのためになるのかは、侑紀ちゃんが決めます」
突如湧いてきた、よく分からない感情。
「確かに現実問題として、不倫の代償は払わなければならないかもしれません。奥さんがいたことを知りながら会っていたのだから。侑紀ちゃんにとって辛いことも多いかもしれない。.......だけど、」
だめだ、止まらない。
「侑紀ちゃんにとっても、それに唐西先生にとっても。彼らの幸せが何かを定義するのは、他者じゃない。それを決められるのは、二人だけです。......奏さんの言うことは、傲慢だと思います」
感情に任せてそう言うと、奏さんはニヤリと唇を歪ませた。
「傲慢ね。ふふ。悪魔らしくて気に入りました」
奏さんは余裕の表情だ。
「だからこれ以上余計なことはしないでください。.......いや、」
上から目線でものを言う人は好きじゃないから。
「撤回します。奏さん、二人の絆がさらに強くなるような試練を与えてくださって、感謝します」
「本当に絆が強くなればいいのですが」
奏さんは不敵な笑みを崩さない。
「勝手にほざいてていいから、出てけ」
仁伎くんがドアを開けた。
「では、邪魔者は退散します。......藤嶋侑紀のピュアな魂が僕のものなる日は、近いですね」
奏さんはすんなりと出ていった。
捨て台詞は残していったけれども。
◯
付き合いの長い友人から「莉乃の怒ったところを見たことがない」とふとしたときに言われたのを、あたしはいまだに気にしている。
あたし以外の他の人間たちは、怒りという感情とどう向き合っているのだろう。あたしはそれが分からない。
だってね、耐えられないの。まるで重い心の病にかかったみたい。すごく怒ることを「はらわたが煮えくりかえる」って言うけど、言い得てるよね。イライラムカムカって、精神衛生上よくないんじゃないかって、あたしは思うよ。
あたしは、怒らないわけじゃない。一時は怒りの渦に呑みこまれちゃうの。けれどすぐ、どうしてか悲しみの感情が取って代わってしまう。怒りが悲しみに変わってしまう。すべて自分に非があるんだって、どうしても思いこんでしまう。
あたしは上手に怒れない人間なの。
だから、今回のこともそう。
信じてた夫に裏切られたのは、あたしのせい。あたしが人間としてクズだから。常人に非はないよ。常人以外に愛するひとがいるなんて、そのひととセックスを楽しんでるなんて、なんて罪深い。あたしは幸せな家庭を築けなかった。あたしはどうして、いつもフツーの人生を生きられないんだろう。家庭を壊したかったわけじゃないのに、そうなってしまった。
あたしはそうして悲哀と劣等感に浸りながら、鈍く光る銀色の刃を白い肌に突き立てる。
◯
仁伎くんと永枝さんから聞いた。唐西先生のお子さんが病気で長期入院となったこと。唐西先生の奥さんが自傷行為を始めて精神科にかかっていること。
吉成さんの長女である朋子さんから聞いた。吉成さんが自宅で転倒し、骨折したこと。お母さんが心配だけど、日中仕事のため見ていられない朋子さんは、退院したら彼女をケアハウスに入居させると決めたこと。吉成さんはわたしのレッスンをもう受けられないこと。
すべてが悪い方向へ。わたしはそれを止められない。
◯
つねちゃん。
つねちゃんつねちゃんつねちゃんつねちゃんつねちゃん!
わたしの愛しい人!
彼の背中に、心の中で何度も唱える。
これから、あなたに話さなきゃいけないことがあるんだよ。でも、それを話せばすべてが変わってしまうから。今のままでは、いられないから。
少しだけ、今この瞬間を噛みしめていたかったの。
「......つねちゃん」
「あ、侑紀。今レッスン終わったところだよ」
ピアノの前に腰かけて譜面に何かを書きこんでいた彼が振り向いた。
つねちゃんにはやっぱりピアノが似合うね。
「どうしたの、こんなところで会いたいなんて」
「つねちゃんのレッスンを受けてみたくて」
そう言うと、分かりやすく笑顔になる彼。
ーーこの人が、愛おしい。
「いま、並木先生とメヌエット練習してるの」
「いい曲だね。じゃあ弾いてみ」
両手を鍵盤にかざす。でも、その前に、話さなきゃいけないことが。
「あのね、つねちゃん......」
「......何?」
わたしの妙な雰囲気を感じ取ったのか、つねちゃんは真剣な表情になった。強い視線を感じる。
わたしはつねちゃんの顔を見れなかった。
「わたしたちがおばあちゃんとおじいちゃんになったら......。そしたら、一緒になろうよ」
「......。」
静寂がレッスンルームを包む。
「吉成さんがね、家で転んじゃったって聞いた?」
「......うん」
「それで、ケアハウスっていう高齢者のための施設に入るんだって。ケアハウスはね、老人ホームとかと違って、割と自由が効くらしいよ」
「......。」
「わたしたち、年を取ったら同じケアハウスに入ろう。シガラミから自由になったら、一緒の家で暮らそう」
つねちゃんは何て言うだろう。
「......嫌だ」
大人なつねちゃんらしくない言葉。
「何十年も待たなきゃならないなんてできない」
子どもみたいに駄々をこねてる。
「わたし、メヌエットも途中なんだけど、瀧田音楽教室を辞めることにしたんだ」
「え?」
「つねちゃんのことを一番に考えたら、そうなったの」
「......。侑紀にそんなこと言われたら、俺はどうすればいいの?」
つねちゃんは俯いてしまって表情が分からない。
「じゃあ約束して。おじいちゃんとおばあちゃんになったら、同じ家で暮らして一緒に余生を楽しむって」
「......その選択肢しか侑紀の中にはもう無いの?」
返事してしまったら、きっともう終幕だ。
でも、わたしはこの答えに誇りを持っている。
「うん」




