獣の死骸ではないと、僕は見抜いた
「行こう」
僕がそう言うと、リゼは小さく息を吸って頷いた。
二人で、塊に向かって一歩ずつ足を進める。
日はまだ完全には落ちていない。だが、荒野を覆う光は、既に橙から薄い紫へと移り変わろうとしていた。
夕暮れの風が、乾いた砂を薄く巻き上げる。それが、塊の輪郭にかかるたびに、その形が一瞬だけ、ぼやけて見えた。まるで、視線を寄せ付けまいとしているような、不思議な錯覚だった。
近づくほど、大きさの実感が増していく。家一軒分どころか、もっと大きいかもしれない。全体の形は、丸みを帯びた部分と、鋭く裂けたような部分が入り混じっていて、一目でどんな輪郭なのか掴めなかった。表面のあちこちに、光の当たり方で色が微妙に変わる部分がある。
「これ、本当に生き物?」
リゼが、僕の少し後ろから聞いた。声には、既に半分ほど答えを予感しているような響きがあった。
僕は目を細めて、塊の表面を観察する。
獣の死骸なら、骨の形や肉の萎れ方から、おおよその輪郭は想像できるはずだ。討伐してきた魔物の死骸も、何度も見てきた。あの氾濫の夜も、何体もの獣の骸を目にした。でも、これは違う。骨のような硬い部分は見えるものの、そこに繋がる肉や皮の質感が、どこにもなかった。
肉が朽ちてなくなったのだとしても、骨の周りに、乾いた筋や皮の残りくらいは見つかるはずだ。だが、この塊には、そういう痕跡が一切見当たらない。まるで、最初から肉というものが存在しなかったかのように。
表面のあちこちに、妙に均一な面がある。獣の皮膚や毛皮なら、こんなに滑らかにはならない。むしろ、表面全体が、村の鍬や鋤の刃と似た、硬い質感をしていた。近づくほど、その硬さが、生き物の体というより道具に近いと感じられてくる。
指先で触れる前から、その硬さは分かる気がした。表面を伝う光の反射の仕方が、獣の毛並みとはまるで違う。むしろ、鍛冶屋の仕事場で見た、研ぎ上がったばかりの刃物の光り方に近かった。
歩みを進めるたびに、大きさへの実感が更に増していった。近づけば近づくほど、この塊が、僕の背丈よりもはるかに大きいことが分かってくる。
「これは……」
僕の中で、これまで積み重ねてきた小さな違和感が、ひとつずつ繋がっていくのを感じた。
井戸の底の格子状の光、魔物の骨の均一な艶、古木に巻きついた帯の刻印――どれも単体では、単なる異物としか思えなかった。でも、目の前のこの塊には、そのすべての質感が、より濃く、より完成された形で詰まっている気がした。まるで、これまで見てきた断片の一つ一つが、この場所へ辿り着くために置かれていたかのように。
「これは、生き物じゃない」
言葉にした瞬間、腑に落ちる感覚が静かに胸の奥で広がった。今までのような、火花が弾けるような強さではない。もっと、深く沈み込むような確信だった。
これまでの覚醒は、いつも一瞬の衝撃だった。だが今回は違う。まるで、ずっと前から知っていた答えに、ようやく手が届いたような、静かな重さだった。
「生き物じゃないって……」
リゼが、僕の顔を覗き込んだ。
「じゃあ、何なの」
「分からない。でも……誰かが、作ったものだと思う」
その言葉に、リゼの手が僕の袖をきつく握った。
僕自身、自分の言葉を口にしながら、まだ半信半疑だった。誰かが作った、というその一言の重さを、自分でも測れていなかった。
「怖いよ、ノア」
「うん。……僕も」
それでも、足は止まらなかった。恐怖よりも、確かめたいという気持ちの方が今は強かった。ここまで来て、目を逸らして引き返すという選択は、もう自分の中にはなかった。
これまで、疑問を保留にしたまま眠れない夜を、何度も経験してきた。井戸の光を確かめずに帰った日も、聖具の違和感を口にできなかった夜も、同じ重さの息苦しさがあった。今、それを繰り返すつもりはなかった。
塊まで、あと十歩ほどの距離まで近づいた。
足元の砂が、これまでよりも粗くなっている。踏むたびに、小さな音を立てて崩れた。リゼも、同じ感触に気づいたのか、僕の少し後ろで足取りを慎重にしている。
表面の裂け目から、内側の色が微かに見える。外側の灰色とは違う、もっと暗い色をしていた。何かの隙間のように、規則的な形をした縁が見て取れる。夕暮れの弱い光でも、その縁の直線だけは、はっきりと目に映った。
「あの裂け目、変だよ」
リゼが指を差した。
「切れ目が、まっすぐすぎる」
僕も、それに気づいていた。獣が傷つく時の裂け方とは、明らかに違う。刃物で切ったような直線ではないが、あまりにも整った、意図的な形の裂け目だった。まるで、最初からそこだけが開くように作られていたかのように。
もしかすると、この裂け目は、外からの傷ではなく、最初からそこに存在していたものなのかもしれない。そう思うと、これまで魔物の死骸としか考えていなかった見立てが、根底から揺らいでいく気がした。
風が、ひときわ強く吹いた。金属質の匂いが、これまでよりも強く鼻を刺す。
「近づいて、確かめよう」
僕がそう言うと、リゼは唇を強く結んで頷いた。
二人で、最後の数歩を、ゆっくりと進んだ。
一歩ずつ距離を詰めるたび、これまで抑えてきた恐怖が、少しずつ形を変えていくのを感じた。恐ろしいだけの感覚ではない。この先に何があるのか、知りたいという気持ちが、恐怖と同じくらいの重さで胸を占めていた。
塊の全体が、目の前に迫ってくる。想像していたよりも、ずっと大きい。そして、近づくほど、それが自然の産物ではないという確信が、いっそう強くなっていった。
夕暮れの光が、塊の表面を斜めに照らしている。灰色の面の一部が、その光を受けて、ほんの一瞬だけ、鈍く艶を放った。井戸の底で見た光と、同じ質のきらめきだった。あの時は水の底に沈んでいたものが、今は、こんな荒野の真ん中に、剥き出しの姿で転がっている。
「これだけ大きなものが、こんな場所にあるなんて」
リゼが、周囲を見回しながら呟いた。
「誰も気づかなかったのかな。それとも……気づかせないように、置かれてたのかな」
僕には、その問いにも答えられなかった。ただ、村の誰もこの場所を知らないという事実だけが、その問いの重さを裏づけているように感じられた。
手を伸ばせば、届く距離まで来た。
これまで拾ってきたどの物とも比べものにならない大きさが、目の前に迫っている。近づいてみないと分からなかった質感が、今、はっきりと手の届く場所にあった。
僕は、その裂け目の縁に、そっと視線を落とした。
正体が生き物ではないと分かる回でした。次話、いよいよ二人がその裂け目に触れます。




