「あれは、何だ」とリゼが声を落とした
筋を追って、どれくらい歩いただろう。
日差しの角度が、ずいぶん傾いていた。荒野は、村では見たことのない広さで、どこまでも同じ景色が続いているように見えた。
村を出てから、まだ半日と経っていないはずなのに、時間の感覚がひどく曖昧になっている。静寂に慣れてしまったのか、それとも、この土地そのものが時間の流れ方を変えてしまうのか。足の裏が、乾いた地面の熱をずっと感じ続けていて、それもまた時間を数える感覚を鈍らせているのかもしれない。
汗がこめかみを伝って落ちる。喉の渇きを感じたが、水筒に手を伸ばす前に、リゼの声が響いた。
「ノア、あれ」
リゼが、前方を指差した。
僕は、彼女の指の先を追った。
地平線に近い場所に、丘とは違う輪郭のものがある。丘のようになだらかではなく、もっと角ばった、不規則な形をしていた。周りの起伏に紛れて、これまでずっと見落としていたのかもしれない。あるいは、近づくにつれて、ようやく輪郭が浮かび上がってきたのかもしれない。
「あれは……何だろう」
目を凝らしても、距離があってはっきりしない。ただ、その色は、周囲の地面とも乾いた草とも違っていた。灰色がかった、くすんだ色だ。太陽の光を反射している様子もない。むしろ、光を吸い込んでいるようにさえ見えた。
僕は、目を細めて、その輪郭を何度も見比べた。近くにあれば、大きさの見当がつくはずなのに、距離のせいで、実際の大きさがまるで想像できない。それが、これまで対峙してきたどの謎とも違う、居心地の悪さを生んでいた。
僕たちは、しばらく足を止めたまま、その輪郭を見つめていた。
「動物、かな」
リゼが小さな声で言った。
「大きさが、変じゃない? あんなに大きい獣、村の周りにもいなかったし」
僕も、同じことを考えていた。討伐してきたどの魔物とも輪郭が違う。魔物なら、四肢や角のような突起がもう少し見えるはずだ。だが、そこにあるものは、もっと角ばって、平らな面が多い気がした。動物とも、獣とも呼びきれない、どこか異質な塊だった。
しばらく黙って見つめているうちに、その輪郭が、少しずつ僕らの方に近づいているような気がした。実際には、僕らが少しずつ足を前に進めていただけなのだが、それでも、その錯覚は妙に生々しかった。
しばらく二人とも動かなかった。風がないぶん、時間の流れそのものが止まったように感じられる。
「近づいてみる?」
僕が聞くと、リゼは少し迷ってから頷いた。
「怖いけど……確かめないと、余計に怖い気がする」
その言葉に、僕も同意した。分からないまま引き返す方が、きっと後で何倍も怖くなる。これまでの謎も、いつも確かめてしまえば、恐怖より先に腑に落ちる感覚がやってきた。フェインの隠し帳簿も、無ノ子の記録も、確かめる前は、確かめた後よりずっと恐ろしく思えたものだった。
僕たちは、慎重に足を進めた。
近づくほど、静寂がいっそう重く感じられる。風もない。虫の音もない。ただ、自分たちの呼吸と足音だけが、乾いた空気の中に響いていた。踏み出す一歩ごとに、砂が擦れる小さな音が耳に残る。
歩幅を狭め、周囲を確かめながら進む。目に映るものすべてが、これまで村で見てきたどんな景色とも違っていた。だからこそ、油断すれば、思わぬ足元の変化に気づけないかもしれない。そう思って、僕は一歩ごとに視線を落とす癖がついていた。
不意に、背後の草むらが小さく揺れた。
音ではなく、空気そのものが揺れたような、微かな違和感だった。反射的に、僕はリゼの肩を押さえ、その場に身を沈めた。息を止め、乾いた地面に膝をつき、来た道の方を窺う。
数拍のあいだ、何も動かなかった。ただ、自分の鼓動だけが、耳の奥で大きく響いていた。
ゆっくりと顔を上げ、来た道を目で辿る。草の連なりが、夕暮れの薄い光を受けて揺れているだけだった。誰の姿も、足跡も見当たらない。
「どうしたの?」
リゼが、小声で聞いた。
「……何かいた気がした」
言いながら、自分の声が震えていることに気づいた。誤認だったのかもしれない。それでも、見られているという重さは、背中に張りついたまま、なかなか消えなかった。柵の向こうに見えたあの小さな灯りのことが、頭の隅をよぎる。ダレンが告げた、僕の名前で上がったあの報告のことも。
リゼも、同じ方向をしばらく見つめていた。
「気のせいかもしれないね」
「……たぶん」
答えながら、僕はもう一度、来た道の先を見渡した。何も見えない。それでも、この荒野には、自分たち以外の何かの目があるという確信だけが、拭いきれずに残っていた。
僕たちは、しばらく息を潜めたまま動かなかった。やがて、リゼが小さく息を吐き、立ち上がる。僕も、乱れた呼吸を整えながら、腰を上げた。
輪郭が、少しずつはっきりしてくる。
大きさは、家一軒分くらいはあるだろうか。表面はひどく歪んでいて、ところどころ大きく裂けているようにも見える。全体の色は、灰色と、それより暗い色が混じっていた。近づくほど、その暗い部分が、思っていたよりも深く沈み込んでいるのが分かってきた。
輪郭の上部には、丸く盛り上がった部分と、平らに広がる部分が交互に並んでいる。獣の体つきなら、こんな並びにはならない。何かの意図があって、そう作られたとしか思えない配置だった。
「あれ、生き物の……死骸、なのかな」
リゼの声が微かに震えていた。
僕は、答えられなかった。
これまで見てきたどの魔物の死骸とも質感が違う。獣の毛皮や鱗のようなものが見当たらない。表面のあちこちに、妙に硬そうな光沢がある部分があった。まるで、皮膚と石の境目が分からないような、奇妙な質感だった。
魔物討伐の経験から言えば、あれくらいの大きさの死骸なら、周囲に血の跡や、争った跡があるはずだ。だが、塊の周りの地面には、そういう痕跡が何一つ見当たらなかった。
風向きが変わり、微かな匂いが流れてきた。
肉が腐るような匂いではない。もっと乾いた、金属に似た匂いだった。井戸の底で見た光や、古木の帯を思い出させる匂い。鼻の奥に残るその匂いが、これまでの謎の断片を静かに呼び起こしていく。
リゼも、同じ匂いに気づいたようだった。眉を寄せ、鼻を軽く手で覆いながら、僕の顔を見た。何か言いたそうにしていたが、言葉にはならなかった。
胸の奥がざわつく。
「もう少し近づいてみよう」
僕は、そう言いながらも、足がすぐには前に出なかった。
リゼも、同じように立ち止まっている。二人とも、その塊から視線を離せないまま、しばらく動けなかった。夕暮れが近づき、周囲の色が少しずつ橙に染まっていく。その中で、塊の輪郭だけが、周りとは違う不気味な暗さを保っていた。
「引き返した方がいいのかな」
リゼがぽつりと言った。
僕は、少し考えてから答えた。
「引き返したら、きっと今夜、眠れない」
「それは、わたしも」
リゼが小さく笑った。震えた笑いだった。それでも、その一言で、僕たちは互いに、この先へ進むしかないと分かっていた。
太陽が、地平線に半分ほど沈みかけている。あの塊の輪郭が、逆光でますます黒く見えるようになっていた。今日中に確かめておかなければ、明日になれば、確かめる勇気そのものが萎えてしまう気がした。
日が暮れる前に、答えを見つけたい。その一心で、僕はもう一度、塊の輪郭に目を凝らした。近づけば近づくほど、これまで積み上げてきた小さな謎のすべてが、この一点に向かって収束していくような予感がしていた。
裏山で見つけた石、古木に巻きついた帯、井戸の底の光――どれも単独では、小さな違和感でしかなかった。だが、この荒野に眠るものが、それらと同じ質感を持っているとしたら、話の大きさそのものが変わってくる。
「ノア」
リゼが、僕の名前を呼んだ。
「あれは、何だ」
その一言が、僕の中でも、ずっと言葉にできずにいた疑問そのものだった。
正体の分からない塊を見つける回でした。次話、いよいよ二人がそこへ近づきます。




