静けさの正体を、この目で確かめに行く
風がふっと止んだ。
さっきまで頬を撫でていた乾いた風が、ここに来て急に消えている。僕は思わず足を止めた。
「どうしたの」
リゼが、僕の少し先で振り返った。
「風が、ない」
言われてみて、リゼも気づいたようだった。二人とも、しばらく黙って耳を澄ませた。
聞こえるのは、自分たちの足音だけだった。
村を出てからずっと鳥の声や虫の羽音が遠くに混じっていた。荒野の乾いた地面にも、小さな生き物の気配はあちこちにあった。トカゲが石の間を走る音、羽虫が耳元を過ぎる音。うるさいとさえ感じていたそれらの音が、今はまったく聞こえない。だが、この一帯には、それが何もない。
「変だね……こんなに、静かなの」
リゼが小さな声で言った。
僕は、周囲の地面に目を落とす。虫の穴も、獣の足跡も、糞の跡も見当たらない。まるで、この場所だけ生き物という存在そのものが避けているみたいだった。
耳を澄ませるほど、静けさの質が普通ではないと分かってくる。村の夜、寝床で耳を澄ませた時でさえ、遠くで虫が鳴く音や、木の葉が擦れる音が微かに届いた。だが、ここには、そうした遠い音の欠片さえ届いてこない。まるで、音そのものを吸い込む何かが、この場所の底に沈んでいるようだった。
胸の奥で、棘が小さく疼いた。
これまで暴いてきた村の謎は、いつも「誰かが隠している」という人の意図の匂いがした。だが、この静けさには、それとは違う質の異様さがある。まるで、この土地自体が何かの理由でそう作られているような。
「進んでみよう」
僕がそう言うと、リゼは少し不安げな顔をしたが頷いた。
二人で、静けさの中をさらに進む。
日差しは、変わらず強い。乾いた地面が、歩くたびに白い埃を薄く上げた。喉の渇きを感じて、僕は腰に下げていた水筒に手を伸ばす。中の水は、まだ半分ほど残っていた。村の水とは違う、少し埃っぽい味がする。それでも、今はありがたい一口だった。リゼにも水筒を渡すと、彼女は小さく礼を言って口をつけた。
「境の外に出て、まだ半日も経ってないのに」
リゼが乾いた声で呟いた。
「もう、こんな景色を見てる」
「うん」
僕は、水筒を受け取って、腰の袋にしまい直した。歩き出すたびに、これまでの十四年間が、少しずつ遠くなっていくような感覚があった。振り返れば、まだ引き返せる。そう思いながらも、足はいつも前へ向いていた。
しばらく歩くと、地面の様子が変わってきた。
さっきまでは、乾いた土に草がまばらに生えているだけだった。だが、この辺りは土がやけに硬く締まっていて、草もほとんど生えていない。まるで、何度も同じ場所を踏み続けた道のように。
僕はしゃがみ込んで、その地面を確かめた。
指先で押しても、ほとんど凹まない。硬さの均一さが、自然の土とは思えなかった。目を凝らすと、地面の硬い部分が真っ直ぐな筋を描いて、奥まで続いている。幅は、ちょうど大人が二人並んで歩けるくらいだろうか。両端の縁だけが、周りの荒れた地面と、はっきり境目を作っている。
「これ……道、みたいに見える」
リゼが、僕の視線を追いながら言った。
僕は、その筋を目で辿った。緩やかに曲がりながらも、明らかに一定の幅を保っている。自然にできる裂け目や獣の通り道なら、こんなに均一にはならない。雨に削られた跡なら、途中で幅が広がったり狭まったりするはずだ。だが、この筋には、そういう乱れが一切ない。
村で見てきた、獣道の跡を思い出す。あれはいつも、草の生え方や地面の傾きに合わせて、緩やかに歪んでいた。この筋には、そういう自然の都合が、何一つ感じられなかった。
「自然にできたものじゃない」
言葉にした瞬間、これまで何度も感じてきた、あの腑に落ちる感覚がやってきた。
井戸の底の光、裏山の石の溝、古木に巻きついた金属の帯――どれも単体では、自然の中の小さな異物でしかなかった。でも、この荒野に、こんな規則的な筋が続いているとしたら。誰かが、それを意図して残した可能性の方が、ずっと自然に思えた。今まで別々に拾ってきた小さな断片が、この道の上で一本に繋がろうとしているように感じられた。
「誰かが、ここを通っていた……あるいは、今も」
僕は、自分の声が少し震えているのに気づいた。
リゼが、僕の腕にそっと触れた。
「村の言い伝えで、聞いたことある。この辺りは、"星の怒りが宿る場所"って」
「星の怒り?」
「うちのおばあちゃんが、昔よく言ってた。境の外の、生き物のいない場所には近づいちゃいけないって。……それが、ここのことだったのかな」
僕は、改めて周囲を見渡した。
生き物の気配のない静寂。人工的にしか見えない筋。村の言い伝えが、いつもそうであったように、この違和感の正体を、恐怖という形でしか伝えてこなかったのだと分かる。祖母や村の老人たちが口にする戒めも、きっと同じだ。理由を説明できないまま、恐れだけが世代を越えて残されてきたのだろう。誰かが最初にこの場所を目にした時、恐怖以外の言葉を持てなかったのかもしれない。
村の中では、理由を突き詰めようとする前に、恐れという答えだけが先に与えられる。井戸の水位のことも、聖具の精巧さのことも、いつも同じだった。理由を知る前に、疑うことそのものが禁じられてしまう。ここに広がる静寂も、きっとその繰り返しの一つに過ぎないのだろう。
「怒りなんかじゃない気がする」
僕は、筋の続く先に目を向けた。
「これは、誰かが作った、何かの跡だ」
リゼは、何も言わずに僕の手を握った。冷たい掌が微かに震えている。
「行こう」
よく見ると、その筋は一本だけではなかった。もっと薄い筋が、いくつか枝分かれするように、荒野のあちこちへ延びている。
僕たちは、その筋を追うように、荒野の奥へと足を進めた。
歩くほどに、周りの景色が少しずつ変わっていく。草の丈が低くなり、地面はさらに硬く乾いていく。時折、小さな石が転がっているのが見えたが、それさえも角が妙に整っていて、自然に削られたものとは思えなかった。日が傾き始め、僕たちの影が、筋に沿って長く伸びていった。
「戻る?」
リゼが、一度だけそう聞いた。
僕は、少し考えてから答えた。
「もう少しだけ、進みたい。ここで戻ったら、絶対に後悔する気がする」
リゼは、それ以上何も言わず、僕の隣を歩き続けた。
歩き続けるうち、口の中がまた乾いてきた。だが、水筒に手を伸ばす気にはならなかった。今は、一歩でも先に進むことだけを考えていたかった。
静寂の中、二人分の足音だけが、どこまでも響いていく。この道が、どこに続いているのか、まだ誰にも分からなかった。
音のない荒野に、二人が踏み込む回でした。次話、その先に何かが見えてきます。




