一度しか見ていない景色を、なぜ知っているのか
草をかき分けて進むと、視界が一気に開けた。
僕は思わず足を止めた。
地平線まで続く乾いた大地。低い丘が、緩やかな起伏を描きながら奥へと連なっている。空は、村で見上げていたものよりどこか色が薄い。灰色がかった青。そんな色を、村では一度も見たことがなかった。
風が吹くたび、地表の砂が薄く舞い上がる。草の一本一本が、村の草よりも硬く、色も濃かった。生き物の気配は、どこにも感じられない。ただ、風の音だけが、ずっと続いていた。
遠くの丘の輪郭も、風に削られた崖の角度も、一つひとつが、これまで見てきたことのないもののようでありながら、どこかで見たことがあるような気がした。この地に立ったのは今日が初めてなのに、どこもすでに見たことのある景色だった。
「これ……」
声が、うまく出なかった。
この光景を、僕は知っている。
何度も何度も、頭の中で繰り返してきた光景だった。柵の隙間から一度だけ見た、あの日の記憶。それが今、目の前に、そのままの形で広がっている。
「ノア、どうしたの」
リゼが、心配そうに僕の顔を覗き込んだ。
「この景色、知ってる。何度も、頭の中で見てきた」
「そうだよね。前に一度見たことがあるって、言ってたし」
「うん。……でも」
僕は、丘の稜線を指差した。
「あの丘の向こうの形。あそこだけ少し不自然に平らになってる。あれ、前に見たときには、たしか見えなかったはずなんだ」
「見えなかった、のに?」
「うん。あの日は、ほんの一瞬しか外を見てない。まばたきより少し長いくらいだった」
リゼは、僕の指の先を、丘の輪郭に沿って目で追っていた。何かを比べるように、しばらく黙っていた。彼女の視線が、丘の線を一度、二度、三度となぞるのを、僕は黙って見ていた。
けれど頭の中で繰り返されてきた景色には、その丘の輪郭が確かに含まれていた。まるで最初から知っていたかのように。
背筋に冷たいものが走った。
「じゃあ、どうして……」
リゼの声も、微かに震えていた。
僕は、もう一度目の前の光景を見渡した。丘の連なり、乾いた地面のひび割れ方、遠くにぽつりと見える大きな岩のような塊――どれもが、これまで頭の中で見てきた光景と寸分違わず重なっている。地面の色の濃淡も、風で削られた崖の角度も、同じだった。
一度きりの、一瞬の目撃だった。あの日、柵の隙間から覗いた時間は、瞬きより少し長いくらいのはずだった。それだけの時間で、こんな細部まで覚えられるはずがない。
「これまで見てきた景色は、本当にただの記憶だったのかな」
自分の声が、自分のものではないみたいに遠くから聞こえた。
もし、あの記憶が単なる記憶ではないのなら。
もし僕が、まだ一度も見たことのない部分まで、最初から知っていたのだとしたら。
その考えに行き着いた瞬間、指先の先まで冷たい震えが走った。
「ノア……」
リゼが僕の手を強く握った。
「大丈夫。一緒にいるから」
僕は、その温かさにすがるようにリゼの手を握り返した。だが、頭の中の疑問は少しも消えなかった。
なぜ、知っているのか。
一度しか見ていない場所の、見たはずのない細部まで、なぜ僕は覚えていたのか。頭の中で繰り返されてきたあの景色は、記憶の摩耗によって薄れることも、歪むこともなかった。むしろ日を追うごとに輪郭を増していった。それこそが、これまで気づけなかった最大の違和感だったのかもしれない。
もし、この星に、知らない誰かの意思が、僕たちの進む先をすでに知っていたのだとしたら。その想像の方が、目の前の景色そのものよりも、はるかに恐ろしかった。
これまで、井戸の光や魔物の規則性や村の帳簿の隠蔽――暴いてきた謎は、どれも調べれば調べるほど答えの輪郭が見えてきた。手を伸ばせば、少しずつ確かな形に触れられた。
井戸の底の光には格子状の構造があった。魔物の骨には均一な艶があった。どちらも、目で見て、手で触れて、確かめられるものだった。
けれど、今、目の前にあるこの疑問には、調べる手がかりすら、まだどこにもない。誰に聞けばいいのか、どこを探せばいいのか――その入り口さえ見えなかった。
ただ、確かなことが一つだけあった。
この既視感は、記憶なんかじゃない。
「ここに、何かがある」
僕は、乾いた風に目を細めながら荒野の奥へと視線を向けた。
丘の向こう、遠くの地面に、何かの塊のようなものが微かに見えた気がした。あの光景の中に、僕がまだ確かめたことのない何かが、確かに存在している。
風が、ひときわ強く吹いた。砂と鉄の匂いが、これまでよりずっと濃く鼻の奥に流れ込んでくる。
僕は、その匂いにさえ既に覚えがあることに気づいた。
匂いだけではなかった。風の吹き方、丘の向こうから響く微かな音、足の下の地面の硬さ――どれもが、初めて触れるはずのものなのに、僕の中には既にその感触の記憶があった。
「ノア。……大丈夫?」
リゼの声で、僕は自分がどれだけ長く立ち止まっていたかに気づいた。
「うん。ちょっと考えてた」
「何を」
「なぜ、知ってるんだろうって」
僕は正直に答えた。それ以上、うまく言葉にできなかった。
リゼは、しばらく黙って僕の手を握り続けていた。それから静かに言った。
「分からないことは、分からないままでいいよ。今は」
その言葉に、少しだけ肩の力が抜けた。だけど、頭の奥に残った疑問は消えるどころか、むしろ確かな重さを増していく気がした。
これまで積み上げてきた謎は、どれも、時間をかければ答えに近づけるものだった。証拠を探し、比べ、確かめる。そうすれば、少しずつ輪郭がはっきりしてきた。
でも今度の謎には、証拠を探す前から、答えの一部が僕の中にある。それが何よりも恐ろしかった。
――なぜ、知っているんだろう。
答えの出ない問いだけが、胸の奥に重く残った。丘の向こうに広がる荒野は、これから僕がその答えを探しに行く場所であり、同時に、既にどこかで、その答えを知っていた場所でもあった。
そのねじれた感覚だけが、確かに僕の中にあった。
風が、また強く吹いた。乾いた草が足元で音を立てる。荒野の奥、丘の連なりの向こうに、まだ見えない何かが僕を待っている気がした。
リゼが僕の手をもう一度、確かめるように握った。二人の影が、朝の乾いた地面に長く伸びていた。この先へ進む足を、僕はもう止めなかった。
境の外に出て、ずっと見てきたはずの景色の中に、知らないはずの答えを見つけてしまう回でした。




