「疑えば星の恵みを損なう」は起きなかった
体を柵の隙間に押し込んだ瞬間、何かが変わった。
まず、匂いだった。
村の中では、いつも土と草の匂いがした。だが、隙間を抜けた先の空気には、それとはまるで違う何かが混じっている。乾いた砂の匂い、そしてその奥に、微かな金属質の匂い。二つが混ざり合って、これまで一度も嗅いだことのない匂いになっていた。
鼻の奥にまとわりつくような、それでいて不快ではない匂いだった。まるで、この星そのものが持つ、剥き出しの素顔に触れたような感覚があった。
「これは……」
思わず、声が漏れた。
続いて、光だった。柵の内側から見えていた光と、外に出た瞬間に肌で感じる光は、明らかに質感が違う。同じ太陽のはずなのに、もっと硬く、もっと鋭い光に感じられた。まぶたの裏まで、その強さが染み込んでくるようだった。
音も、違っていた。村では、いつも誰かの話し声か、家畜の鳴き声か、井戸端で水を汲む音が絶えなかった。ここには、そのどれもがない。ただ、風が乾いた草を揺らす音だけが、途切れることなく続いている。静かすぎる静けさが、逆に耳の奥を落ち着かなくさせた。
「ノア? 大丈夫?」
後ろから、リゼの声が聞こえた。僕は、まだ完全には抜け切れていない。柵の隙間に肩を挟まれたまま、外の景色に呆然と立ち止まっていた。
「大丈夫。……ちょっと、待って」
僕は、残りの体を引き抜いた。柵の内側の土を踏むのとは違う、乾いた感触が、靴の裏から伝わってくる。地面そのものの硬さも、村の中とは違っていた。
体を起こし、初めて、両足でその地面に立った。
心臓が、これまでにないほど強く打っていた。恐怖ではない。むしろ、その逆の感覚だった。体の内側で、何かが静かに弾けるような昂りがあった。
これまで村の中でどれだけの謎を暴いてきても、僕はいつも村という枠の中にいた。井戸の底も、集会所の裏も、裏山の奥も――全部境の柵の内側だった。今、その枠を、初めて自分の意志で踏み越えた。
「越えた」
僕は、誰に向けてでもなく、そう呟いた。
「……本当に越えたんだ」
リゼが、隙間からゆっくりと体を通して、僕の隣に立った。彼女も、同じように、しばらく言葉を失っていた。
「これが……」
彼女の視線は、まだ荒野の全景には向かっていない。目の前の空気そのものに、驚いているようだった。
僕は、深く息を吸い込んだ。肺の奥まで、乾いた空気が満ちる。村では感じたことのない、ざらついた質感だった。息を吐くたび、その異質さが、少しずつ体に馴染んでいく気がした。
「疑うと、星の恵みを損なう」
村中で、何度も聞かされてきた言葉が、頭の中でもう一度響いた。だが、今この瞬間、僕の体に何の異変も起きていない。空も、崩れてこない。地面も、割れない。
幼い頃、これと同じ言葉を口にした年配の女が、震える声で「本当に恐ろしいことになる」と言っていたのを覚えている。あの怯えが、村中に染み込んでいた。あの女の手は、言葉を口にする間、ずっと胸の前で固く握られていたのを、今でも覚えている。今、僕はその怯えの根拠を、自分の体で確かめている。
「何も、起きない」
僕はもう一度、確かめるように呟いた。
「言われてきたことは、全部、嘘だったのかもしれない」
リゼが、僕の手をそっと握った。
「一緒に、確かめよう」
その手の温かさが、外の空気の冷たさとの対比で、いつもよりずっと強く伝わってきた。
村の中で何度も握ってきたはずのその手が、今はまるで違う意味を持っているように感じられた。ここまで一緒に来てくれる人がいる。それだけで、足の震えが少しずつ収まっていく。
けれど、安心しきることはできなかった。柵の向こう、村の方角に、まだ小さな灯りが揺れていたのを、僕は覚えている。あれが誰の灯りなのか、確かめる余裕はなかった。ダレンが告げた、あの報告のことも、頭の隅から離れなかった。名主様のところに、僕の名前で報告が上がっている。今はまだ、それが何を意味するのか分からない。だが、ここに突っ立っている時間が長ければ長いほど、危うくなるということだけは分かった。
僕は、ゆっくりと、視線を前に向けた。
まだはっきりとは見えない。柵の周りに生えた背の高い草が、視界を遮っている。だが、その向こうに確かに何かが広がっている気配があった。風が吹くたび、草の間から、あの匂いが強く流れ込んでくる。
これまで何百年も、村人の誰一人として、自らの意志でここに立った者はいない。少なくとも、村の言い伝えでは、そう語られてきた。三人の若者が外に出て戻らなかったという古老の話も、この場所と地続きだったのだろう。
その若者たちが、最後にどんな景色を見たのか。今なら、それを想像できる気がした。この匂い、この光、この乾いた風。彼らも、同じものを肌で感じたはずだ。もしかしたら、彼らもこうして草をかき分け、同じ地平線を見上げたのかもしれない。だとしたら、彼らがなぜ戻らなかったのか――その答えの一端も、この先に転がっているのかもしれない。
名前も覚えられていない、と古老は言っていた。だが、少なくとも今この瞬間、僕は彼らの気持ちの一端に触れている。恐れながらも、確かに、この先へ進みたいと願った誰かの足跡が、この草の下に眠っているのかもしれない。
今、僕とリゼは、その禁忌を、確かに踏み越えた。
「怖くない?」
僕は、リゼに聞いた。
「怖いよ。……でも、ノアと一緒だから」
その言葉に、僕は小さく頷いた。
胸の奥に、これまで感じたことのない、熱いものが広がっていく。恐怖でも、後悔でもない。長い間押し込められてきた何かが、たった今解き放たれたような感覚だった。あの日、村長フェインの隠し帳簿を暴いたときに感じた熱とは、また違う種類の熱だった。あの時は自分の内側で起きた変化だったが、今は、自分の立つ場所そのものが変わっている。
「行こう」
僕は、草をかき分けて、一歩を踏み出した。
葉先が、腕や頬をわずかに擦った。痛みではなく、これまで知らなかった感触として体に刻まれる。
視界の端に、これまで何度も夢の中で見てきたあの色の空が、静かに広がり始めていた。
リゼも、僕の少し後ろから、同じ草をかき分けて進んでくる。二人分の足音が、乾いた土の上に、これまでとは違う響きを刻んでいった。
この一歩を境に、これまでの日常には、もう戻れない気がした。それでも、後ろを振り返る気持ちは、少しも起きなかった。
村では、この先に何があるのか、誰も語らなかった。だから、想像する材料さえなかった。今、目に映るものすべてが、初めて触れる情報だった。恐れよりも、その事実の方が、今の僕を強く動かしていた。振り返れば、まだ引き返せる。だが、僕はその選択肢を、もう選ばなかった。
これまでの十四年間、僕はいつも村という決められた枠の中で、何が正しいかを問い続けてきた。今、その枠の外に立って初めて、問いそのものの形が変わっていくのを感じる。
振り返らなくても、村の輪郭が、もうずいぶん遠く小さくなっていることが分かった。柵はもう、草の向こうにかすんで、輪郭さえおぼろだった。戻ろうとしても、来た道をそのまま引き返せる確信は、もう持てなかった。
柵の外の空気を、ノアと一緒に初めて書きました。次話でついに、荒野の全景が見えます。




