柵の向こうにあるものを、暴くと決めた
境の柵は、思っていたよりも、ずっと大きかった。
木と、金属を組み合わせた古い構造物が、見渡す限り左右に続いている。長い年月の間に、苔と蔓が絡みつき、今では自然の一部のようにさえ見える。だが、その隙間から、確かに境の内と外を隔てる意志のようなものを感じた。
リゼが隣で立ち止まった。
「ここまで、近くで見たのは初めて」
「僕も」
村の中からは、この柵は遠くの輪郭としてしか見えなかった。子供の頃、遠目に眺めるだけで、大人たちに「近づくんじゃない」と何度も注意された記憶がある。今、こうして目の前に立つと、その輪郭は想像していたよりずっと重く大きく感じられた。
正確には、一度だけ、もっと幼い頃に、ここに立ったことがある。柵の隙間から、一瞬だけ外の景色を覗いた、あの日。
――見たことのない色の空、地平線まで続く乾いた荒野、鉄と砂の混じったような匂い。
あの光景は、それから何度も、僕の中で繰り返されてきた。夢か記憶かも分からないほどの鮮明さで。今、その光景を実際に目にする場所に、僕は立っている。
「あの日と、同じ場所かな」
「同じだと思う。この辺りしか、隙間はなかったはずだから」
僕は、柵に近づいた。表面は古びた木の質感をしているが、指先で触れると、その下に明らかに違う硬さの何かが埋め込まれているのが分かる。木目の合間から、僅かに光る筋を見つけた。触れずとも分かる、鈍く冷たい存在感だった。
柵沿いに、少し歩いてみる。同じ木目の連続の中に、時折、明らかに人の手が入ったとしか思えない継ぎ目があった。何十年、何百年と、この境界は誰かの手で維持されてきたのだろう。誰が、何のためにそうしてきたのか、村の誰も、その答えを知らない。
昔、この柵に手をかけたとき、僕は、まだ何も知らない子供だった。ただの好奇心と、少しの恐れだけで、この向こうを見ようとした。あの日は、確かめる力も、確かめる勇気もなかった。ただ、見て、驚いて、そのまま日常に戻った。
今は違う。井戸の光、獣の規則性、聖具の精巧さ、村の帳簿の隠蔽――積み上げてきた全てが、この柵の向こうに答えがあると告げている。
「怖い?」
リゼが静かに聞いた。
「怖い。……でも、もっと怖いのは」
「うん?」
「知らないままでいることだと思う」
口にしてから、自分でも意外なほど、その言葉がすんなり出てきたことに気づいた。これまで、恐れは常に、疑うことの側にあった。だが今は、疑わずにいることの方が、よほど恐ろしく感じられる。
リゼは、しばらく黙って僕を見ていた。それから、小さく微笑んだ。
「わたしも、同じ」
短い言葉だったけれど、それだけで、僕は自分が一人で立っているわけではないとはっきり感じられた。
境の柵の向こうから、風が吹いてきた。乾いた土の匂いが微かに混じっている。あの日の記憶とまったく同じ匂いだった。鼻の奥がざらつくような、これまで村の中では感じたことのない感触だった。
リゼも、同じ風を感じたのか、小さく鼻を動かした。
「変な匂い。……でも、嫌いじゃないかも」
そう言って、リゼは少し笑った。緊張をほどくための、彼女らしい言葉だった。
僕は、ゆっくりと手を伸ばした。
指先が、柵の表面に触れる。
冷たかった。木のはずなのに、思ったよりも冷たい。まるで、この柵そのものが、外と内を分けるもっと大きな仕組みの一部であるかのように。
――疑うことは、星の恵みを損なう。
小さい頃から聞かされてきたその言葉が、頭の中で一瞬だけ響いた。だが、その言葉に対する恐れは、もう、ほとんど残っていなかった。子供の頃、この言葉を口にしただけで大人たちの顔が曇るのを、幾度も見てきた。今は、その言葉の裏にあるものを、確かめに行く側に立っている。
「セルマが言ってた」
僕は、柵に手をかけたまま、静かに口を開いた。
「僕の両親も、"同じ目"をしてたって」
「同じ目?」
「何かを知りたくて、知ってしまったら、もう戻れない目だって」
リゼは、その言葉の重さを、そのまま受け止めるように頷いた。
「じゃあ、ノアも、その目をしてるってこと?」
「たぶん」
答えながら僕は柵の縁を強く握った。指の関節が白くなるほどに。
もう、迷いはなかった。両親が見た何かが、この柵の向こうにあるのなら、僕はそれを見届けなければならない。子供の頃に一度だけ覗いた、あの荒野の景色。それが、両親の見ていた景色と、同じかどうかも、今は分からない。だが、確かめる以外の道は、もう考えられなかった。
昨夜、セルマは、それ以上を語らなかった。だが、あの一言だけで、僕の中の何かが確かに変わった。両親が最後に見ていたものが、この柵の向こうにあるのなら――今、この手で、その続きを確かめに行く。
「行くよ」
僕は、リゼの方を向いた。彼女の顔に、恐れはあった。だけど、それを上回る強さも、確かにそこにあった。
「うん」
リゼの頷きに、迷いはなかった。彼女もまたこの数か月で、多くの違和感を自分の言葉に変えてきた。今は、僕と同じ場所に立って、同じ景色を見ようとしている。
出会った頃のリゼは、村の当たり前をただ受け入れる、明るい少女だった。今、隣に立つ彼女は、その明るさを失わないまま、自分の違和感を隠さずに口にできる人になっている。
その変化に、僕がどれだけ関わったのかは分からない。でも、少なくとも、一人で立っているよりずっと心強かった。
風が、もう一度強く吹いた。柵の向こうから、これまで感じたことのない匂いが、はっきりと流れ込んでくる。
一度だけ、来た道を振り返った。遠く、村の輪郭の中に、小さな灯りが一つ、ゆっくり動いているのが見えた気がした。気のせいかもしれない。だが、確かめている時間はなかった。
僕は、柵の隙間に体を寄せた。向こう側の景色が、少しずつ、視界の端に見え始める。
見たことのある光景。何度も、頭の中で繰り返してきた、あの荒野の色。
――一歩、踏み出せば。
心臓が、大きく音を立てた。僕は、深く息を吸い込んだ。
柵の隙間の向こう、まだ全体は見えない景色の断片が、目の前で待っている。この一歩の先に、これまでの全ての謎に繋がる答えがあるのか、それは分からない。だが、少なくとも、これ以上、村の中に留まっていても、答えは近づいてこない。
いよいよ次で、境の外です。ここまで積み上げてきたものが、次話で動きます。




