見送りなど来ないと思っていた
夜明け前、村はまだ深い静寂に沈んでいた。
僕は荷物を背負い、家の戸を静かに閉めた。振り返ると、灯りの消えた窓に、祖母の気配だけが残っている気がした。
外に出ると、空気はひどく冷たかった。吐く息が、微かに白く見える。まだ誰も歩いていない道を、井戸端まで一人で進む。
昨夜、セルマが最後に言った「同じ目」という言葉と、両親が見ていたものへの問いが、まだ頭の奥に残っていた。答えは、まだどこにもない。だけど、今はそれを確かめに行くための足を、僕は既に前へ出している。
井戸端に着くと、リゼが先に待っていた。彼女も、大きな荷物を背負っている。長い髪を後ろでまとめ、いつもよりずっと引き締まった顔をしていた。
「おはようって言うには早すぎるね」
「うん」
「怖くない?」
「怖いよ。……でも」
言葉が続かなかった。リゼは、それだけで十分だというように、小さく頷いた。
二人で歩き出す。まだ人通りのない道を、境の柵の方角へ進んでいく。家々の輪郭が、朝霧の中でぼんやりと浮かんでいた。見慣れたはずの村の景色が、今日はやけに遠く見える。
道の途中、井戸端の前を通り過ぎた。数日前、格子状の光を確かめたあの場所だ。今はただ静かな水面が、朝霧の下でひっそりと揺れているだけだった。集会所の前も通ると、かつて村長フェインの帳簿を暴いた、あの部屋の窓に、灯りが一つだけ点っていた。
こんな時間に、誰かが起きている。気のせいだと思いたかったが、僕は思わず歩調を速めた。リゼも同じ灯りに気づいたのか、何も言わずに隣で足を速める。
この村のいたる所に、これまで積み上げてきた小さな謎の跡が残っている。
「昨日、セルマさんと何話したの」
リゼがふと聞いた。
「……両親のこと」
「うん」
「同じ目をしてたって言われた」
「同じ目?」
「何かを知りたくて、知ってしまったら、もう戻れない目、だって」
リゼは、それ以上は詳しく聞かなかった。だけど、その言葉の重さを、静かに受け止めるように、しばらく黙って隣を歩いていた。
村の外れに差し掛かったところで、路地から人影が現れた。
「よお」
ダレンだった。腕を組んで、壁に寄りかかっている。まるで、そこで待っていたかのように。
「……こんな時間に、何してるの」
「たまたま早く目が覚めただけだ」
その言い方は、明らかに嘘だった。ダレンは、いつもより口数が少ない。何かを言い出しかねているような、そんな沈黙が、しばらく続いた。
「ダレン」
「なんだよ」
「見送りに来てくれたんだよね」
ダレンは、一瞬だけ目をそらした。それから、大きく息を吐いた。
「……戻ってこいよ」
低い声だった。
「お前の"疑い"の続きを、俺が聞きたいからな。まだ聞いてない話が山ほどあるだろ」
その言葉に、胸の奥が温かくなった。かつて、僕を「疑い病」だと見下していた男が、今は、その続きを望んでいる。
数か月前なら、考えられなかった言葉だ。あの頃のダレンなら、こんな時間に見送りに来ることさえ、格好悪いと言って避けていたはずだった。
「必ず戻る」
僕は、そう答えた。ダレンは、鼻を鳴らして笑うと、荷物袋の底から小さな包みを取り出し、無造作に僕へ押し付けてきた。
「なんだよ、これ」
「乾燥肉だ。名主の倉から、ちょっと分けてもらった。腹が減ってから疑うより、腹が減る前に疑うほうが、賢いだろ」
不器用な冗談に、僕もリゼも、思わず笑った。少し前まで、こんな風に笑い合える日が来るとは、想像もしていなかった。ダレンという人間の輪郭が、この数か月でどれだけ変わったか、今になって強く感じる。
「行ってきます」
「うるさい。さっさと行けよ」
そう言って、ダレンはそれ以上何も言わずに、路地の奥へ姿を消した。その背中が見えなくなるまで、僕は見送った。
さらに歩くと、村の境に近い一軒の前で、小さな人影が立っているのが見えた。
トビンだった。
「……行くんだね」
小さな声だった。相変わらず、視線は僕の顔よりも少し低いところに向いている。
「うん。行ってくる」
短いやり取りだったけれど、トビンが自分から声をかけてきたのは、これが初めてだった。
「僕、まだ何も、確かめられてないんだ。無ノ子のこと、村がどうしてこんな仕組みを持ってるのか。……全部、まだ分からないままだ」
「僕もそうだよ。だから、外で何か見つけたら、必ず教えるよ」
トビンは、小さく頷いた。それから、意を決したように顔を上げた。
「……気をつけて。僕、待ってるから」
その声は小さかったけれど、これまでで一番、はっきりとしていた。
リゼと二人、再び歩き出す。柵まで、あとどれくらいだろう。心臓の音が、少しずつ速くなっていく。
「トビンも、少しずつ変わったよね」
リゼが静かに言った。
「うん。……無ノ子って呼ばれてても、あいつは、ちゃんと自分の言葉で話せるようになった」
「ノアが、ずっと隣にいたからだよ」
そう言われて、僕は少し照れくさくなった。自分では、大したことをした自覚がなかった。ただ、放っておけなかっただけだ。
「みんな、待ってるんだね」
リゼがふと呟いた。
「うん」
「じゃあ、絶対、戻らないとね」
僕は頷いた。今まで、疑うことで村から遠ざけられてきた自分が、今、こんなにも多くの人に見送られている。その事実が、まだうまく実感できなかった。
朝日が、山の稜線からゆっくりと顔を出し始めていた。灯の谷全体が、淡い金色に染まっていく。いつも見ていたはずの景色が、今日だけは、特別な色を纏っているように見えた。
リゼも足を止め、しばらくその光を見つめていた。二人とも、何も言わなかった。言葉にすると、この景色の意味が薄れてしまう気がした。
境の柵まで、もう遠くない。木々の合間に、その古びた輪郭が、少しずつ見え始めている。
僕は、荷物袋の紐をもう一度強く握り直した。
「行こう」
リゼが静かに頷いた。
二人の足音だけが、朝の道に響いていた。誰にも見送られない道のりを想像していたけれど、実際には、こんなにも多くの声が、背中を押してくれている。それだけで、この先に何があっても、進めるような気がした。
荷物の重さは、出発を決めたときより、むしろ軽く感じられた。これから待っているものが何であれ、少なくとも、この足で村を出る一歩目を、僕は確かに踏み出している。
ダレンとトビン、それぞれの見送りを書けて良かったです。次は、いよいよ柵の前です。




