「お前の両親も、同じ目をしていた」
夜中、物音で目が覚めた。
隣の部屋、祖母の部屋から、何かを擦るような小さな音が続いている。時刻はまだ夜明けにはずいぶん早い。
僕は寝台を出て、そっと戸を開けた。
台所に、灯りが一つだけ点いていた。祖母のセルマが、机に向かって何かを縫っている。よく見ると、僕の外套の裾だった。長旅に耐えるように、内側に薄い布を重ねて縫い足している。
「……セルマ」
声をかけると、セルマの手が止まった。振り返った顔に、驚いた様子はなかった。まるで僕が来ることを、最初から分かっていたかのように。
「起こしてしまったかい」
「ううん。……何してるの、こんな時間に」
「外套の裾が薄かったから。外は、村より寒いだろうからね」
その手つきは、いつもと変わらず落ち着いていた。だけど指先が僅かに震えていることに、僕は気づいた。何年も、この人の指の動きを見てきたからこそ分かる、小さな異変だった。
僕は向かいの椅子に腰を下ろした。二人の間に、しばらく針の音だけが続いた。
出発の準備は、もうほとんど終えていた。荷物袋も地図も、これまで積み上げてきた紙束も、袋の底にしっかりと収めてある。それでも、こうしてセルマの前に座ると、まだ何か足りない気がした。
小さい頃、熱を出すと、セルマは必ず夜中に部屋を覗きに来た。眠っているふりをしながら、その足音だけを数えていたことを思い出す。今夜も、あの足音の続きのような気がした。
「セルマ、聞いていい」
「なんだい」
「僕が村を出るの、本当は反対なんじゃないの」
セルマの手がまた止まった。今度は少し長く。
「反対だよ」
思いがけないほど、はっきりとした声だった。
「反対だけど、止めない」
「なぜ」
セルマは、針を布に刺したまま、僕の顔を見た。長い皺の奥にある目が、いつもよりずっと近くにあるように感じた。
「お前を、初めて拾い上げたときのことを、今でも覚えてる」
「拾い上げた?」
「まだこの家に来る前の話だよ。小さくて、よく泣く子だった。だけど泣きながらも、何かをずっと見つめてる目をしてた」
セルマは、そこで一度言葉を止めた。針を持つ指が、布の上で小さく揺れている。
「お前の目を見てると、ね」
「僕の目?」
「ああ。……お前の両親も、同じ目をしてた」
その一言に、僕は言葉を失った。
「同じ目って」
「何かを知りたくて、知ってしまったら、もう戻れない――そういう目だよ」
セルマは、それ以上を語らなかった。針を持つ手を、ゆっくりと動かし始める。まるで今の一言で、話せる分はもう使い切ったというように。
僕は、両親のことをほとんど知らない。病気で死んだ、とだけ聞かされて育った。詳しい話を聞こうとするたび、セルマはいつも目をそらしてきた。今も、その目は僕を見ていない。
だけど、初めて、輪郭のある何かに触れた気がした。
両親も、僕と同じように、何かに気づいてしまったのだろうか。そして、その先に、何があったのだろうか。もし、そうだとしたら――両親が最後に見ていたものは、いったい何だったのだろう。
「……もっと聞いても、いい?」
「今夜は、それだけだよ」
セルマは、外套を膝の上に置き、丁寧に折りたたんだ。皺の目立つ手のひらで、何度も布の表面を撫でるように整えている。
「明日、これを持っていきなさい。……気をつけて」
その声には、これまで聞いたことのない、静かな重みがあった。「疑うな」でも「信じなさい」でもない、ただ僕という一人の人間を心配する声だった。
物心つく前から、セルマはずっと「疑うな」と繰り返してきた。その言葉の裏に何があるのか、今の僕には、まだ確かめる術がない。だが今夜だけは、その言葉が一度も出なかった。
僕は外套を受け取った。まだ祖母の指の温度が残っていた。
台所の隅、火の落ちた竈の上には、旅の道中で食べられるようにと焼いた乾パンが山ほど積まれていた。いつ焼いたのか、僕は知らない。
「セルマは、僕に行ってほしくないんだよね」
「そうだよ」
「でも」
「でも、お前を止めたら、お前は一生この村で、その目のまま生きることになる。それだけは、させたくない」
セルマの声は震えていなかった。ただいつもより少しだけ、掠れていた。
僕は、その掠れた声に、これまでのセルマの姿を重ねた。いつも背筋を伸ばし、静かに、村の中で生きてきた人だった。その静けさの下に、こんな重さが眠っていたなんて、今日まで気づかなかった。
「リゼも、明日一緒に行くんだろう」
セルマがふと話題を変えた。
「うん」
「あの子は、優しい子だ。でも、優しいだけじゃ、外の道は歩けないよ。……お前が、守っておやり」
「守るのは、僕の方が守られてる気がするけどね」
セルマは、それに少しだけ笑った。長い間見てきた中でも、久しぶりの笑顔だった。
部屋に戻り、寝台に横になっても、しばらく眠れなかった。
同じ目。
その言葉が、頭の中で何度も繰り返された。孤独だと思っていた自分のこの性分――疑ってしまう、確かめてしまう、この癖――それが僕一人だけのものではなかったのかもしれない。
ダレンが伝えた、あの報告のことも、頭の隅から離れなかった。名主様のところに、僕の名前で報告が上がっている。今はまだ、それが何を意味するのか分からない。だが、悠々と夜明けを待っていい状況ではないということだけは、はっきりと分かった。
これまで、両親のことを考えるとき、いつも寂しさと、少しの恐れがあった。自分の中の何かが、両親を不幸にしたんじゃないかという、拭えない疑い。
けれど今は、違う感覚がある。
もし両親も同じ目を持っていたのなら――僕は一人じゃない。今はもう会えないとしても、確かに繋がっている。明日から向かう場所に、その答えの欠片があるかもしれない。そう思うだけで、足元の不安が、少しだけ軽くなった。
窓の外で、東の空がわずかに白み始めていた。
僕は起き上がり、荷物袋の紐をもう一度確かめた。明日、村を出る。答えは、まだどこにもない。だけど少なくとも、進む理由が、また一つ増えた気がした。
外套を袋に仕舞い込みながら、僕は小さく呟いた。
「……行くよ。お父さん、お母さん」
その声は、誰にも届かなかった。だけど初めて、両親に向けて言葉を発せた気がした。
夜明けには、リゼが井戸端で待っている。まだ数時間あるとはいえ、もう眠れる気はしなかった。荷物袋を背負い直し、僕は静かに部屋の隅に座って、東の空が白むのを、ただ待つことにした。
出発の前に、もう一つだけ、置いていく前に確かめたいことがありました。次話では、いよいよ村を出ます。




