僕の名前で、報告が上がっていた
出発の前夜。荷物は、すべて整えてしまった。あとは、夜明けを待つだけだ。
部屋の中は静かだった。窓の外から、虫の声が絶え間なく聞こえてくる。いつもなら、その音を聞きながらそのまま眠ってしまうところだが、今夜はまだしなければならないことが一つ残っていた。
僕は床に入る前に、これまで書き溜めてきた紙束を、もう一度机の上に広げた。獣の出現日を記録した、古い自衛団の台帳の写し。裏山で見つけた、規則的な溝の絵。魔物の骨の断面を写し取った図。避けられていた見張り小屋の位置を書き込んだ地図。そこに、無ノ子の判定に関する紙。境の外に出た三人の記録と、マレイさんの記録を並べて書き写した、トビンとの覚え書き。そして、モーガスさんとダンさん、二人の警告の言葉を書き留めたメモ。これまで別々に扱ってきた紙の束を、今夜初めて、一つの机の上に並べた。
一つ一つ、指でなぞりながら確かめていく。紙は、どれもすり切れて角が丸くなっていた。何度も何度も見返してきた証拠だった。
まず、無ノ子の判定に関する紙を手に取った。外れ里の"儀式異例"から次の巡回まで、九十日。灯前村の異例から次の巡回まで、九十日。巡回の順番も、村の場所も違う。それなのに、判定があった日から数えた日数だけが、寸分違わず揃っていた。あの日、フェインさんが言った。「この二件だけ、"巡回"じゃなく"経過確認"という字が使われてる」――判定そのものに、決まった期日が組み込まれている。あれは、村を巡る周期の話じゃなかった。
次に、境の外に出た三人の記録と、無ノ子の記録を並べて書き写した紙を取った。「境を越えるとの由、詳細後日追記」。「静養に出す由、詳細後日追記」。言葉こそ違う。だが文の形は、驚くほどそっくりだった。どちらも、その先を書き足す約束を果たさないまま、白紙で終わっている。家族のもとに届いた「見舞いの品、下賜」という一文まで、両方の記録に同じように残っていた。
三枚目は、フェインさんの家で見た、四十年近く前の帳面の写しだった。「個別訪問実施、対象一名――経過観察のため、判定より二十日後」。トビンの家に届いた手紙にあった「経過観察のため、十日後、貴家を訪問する」という書き出しと、驚くほど同じ言い回しだった。四十年の隔たりがあるはずなのに、まるで同じ手が同じ型に沿って書いたようだった。その直後のページは、糸で綴じ直されていた。何かが、抜き取られたみたいに。四十年前、誰かがこの手順に抗おうとして、その記録が消されたのだとしたら――。
四枚目には、モーガスさんとダンさん、二人の言葉を書き留めていた。「あんまり、その話をあちこちで聞き回るなよ」。「あんまり、根も葉もないことを、あちこちで聞き回るもんじゃないぞ」。接点のないはずの二人が、示し合わせたはずもないのに、ほとんど同じ言い回しで僕を止めようとした。
そして、その下に書いた、もう一行。ダンさんが言った、あの一言――「前にも、似たようなことを言って、痛い目を見た奴がいた」。あれは、ただの忠告じゃなかった。あの人自身が、前にもこの手順を、近くで見たことがある――そう言っているようにしか、今は読めなかった。四十年前、記録が消された誰かのことを、ダンさんは知っているのかもしれない。近くで、聞いたことがあるのかもしれない。断定はできない。だが、あの一瞬の失言が、四十年前の空白と、静かに重なった。
僕は、四枚の紙を机の上に並べたまま、しばらく動けなかった。
「無ノ子の判定には、九十日という決まった期日がある。境の外に出た者の記録は、決まった言い回しで途切れる。四十年前も、今も、同じ手順が使われている。……そして、二人とも、僕を止めようとして、同じ言葉を使った」
「……いや、待て」
僕は一度声を止めた。
「これはたまたま似ている村の風習が重なっているだけかもしれない。無ノ子の九十日、境の外の記録、四十年前の帳面――別々の時代、別々の家で、たまたま似た言葉が使われているだけだとしたら」
そう自分に疑いを向けた、その時だった。表の板戸に、控えめな音が響いた。
「ノア、まだ起きてる?」
リゼだった。手に、一枚の紙を持っている。
「これも、一緒に見てほしくて」
差し出されたのは、昨日リゼが見せてくれた、大伯母の記録の写しだった。僕は、それを紙束の隣に並べた。
「療養に出す、との由。経過観察のため、二十日後、再訪の予定。詳細後日追記」
無ノ子の記録でも、境の外の記録でも、四十年前の帳面でもない。リゼの家系という、これまで並べていたどの紙とも接点のない、まったく別の系譜から出てきた言葉だった。それなのに、一字一句、同じだった。
「村の風習なら、家によって、時代によって、言い回しは変わるはずだ。でも……無ノ子の記録も、境の外の記録も、四十年前の帳面も、トビンの家に来た手紙も、そして、リゼの家の記録も――全部、同じ言葉を使ってる。これは、風習じゃない。誰かが、同じ書式を、同じやり方で、ずっと使い続けてきたんだ」
リゼは、しばらく黙ってその言葉を聞いていた。それから、「今夜は、あたしも家で休む」と言って、静かに帰っていった。
一人になった部屋で、声に出すと、これまで一つずつ辿ってきた道筋が、ようやく一つの答えに届いた。
「これは獣の話じゃない。無ノ子の話でも、境の外の話でもない。……全部、同じ一つの手順の、違う顔にすぎないんだ」
最後に、机の隅に残していた、一番古い紙束を手に取った。何年もかけて書き溜めてきた、獣に関する記録だった。
台帳の写しを、もう一度見つめる。獣が現れるのは、決まって月に一度、同じ三日間。この周期は、ほとんど崩れることがなかった。ただ一度、流れ者の一団が境の柵付近に姿を見せた月だけ、その周期が不自然に途切れていた。灯火祭の夜、氾濫が起きたときのことも忘れられない。あの周期が、いつもと逆に崩れて、複数体が同時に出現した。あのときは単なる非常事態としか捉えていなかった。だが今こうして見返してみると、氾濫のタイミングさえ村にとって最も劇的な瞬間に狙って重なっていたように思えてくる。
「獣も、同じだ。流れ者が近づけば、解放が止まる。村が最も劇的な瞬間には、逆に集中して放たれる。……これも、同じ手順の、また別の顔だ」
「星の意志だけで、こんなに整うはずがない」
紙束を、両手でそっと押さえる。ここまで積み上げてきた、たくさんの小さな違和感が、今一本の線として繋がっていく。これは、意志じゃない。手順だ。決まった手続きで、決まった通りに動く、何かの仕組みだ。
背筋の冷たさの奥に、小さな高揚があった。
窓の外は、すでに深い夜に沈んでいる。あと数時間で、夜明けが来る。僕は紙束を丁寧にまとめ、荷物の一番上にしまい込んだ。荷物の重さが、また少し増えた気がした。
窓辺に立ち、村の全景を見渡した。これまで当たり前にそこにあった景色の裏に、こんなにも多くの違和感が隠れていたことを、今ははっきりと知っている。星空だけが、いつもと変わらずそこにあり、それでも今の僕には、違う意味を持って見える。これを操る「誰か」が、村の中にいるのか、遠く離れた場所にいるのか――それさえ、まだ分からない。
「これ……普通の光とは違う」――今朝、井戸端で口にした、あの一言が重なる。井戸の光も、無ノ子の判定も、境の外の記録も、獣の規則性も、きっと同じ一つの手順から伸びている。答えは、まだ出ない。だが、その先を、この目で確かめに行く。
窓の外で、足音が近づいてくる音がした。ノックより先に、声がかかった。
「ノア、いるか」
ダレンだった。こんな夜更けに来るのは、初めてのことだった。戸を開けると、ダレンは息を切らせたまま、辺りを一度見回してから声を落とした。
「今さっき、自衛団の詰所で聞いた。……名主様のところに、報告が上がったらしい」
「報告?」
「お前の名前で。記録所に何度も出入りしてる、境の外のことを調べ回ってる――そういう内容だったって。誰が報告したのかは、俺にも分からない」
息が、止まった。これまでの通達――記録閲覧の許可制、オーレンの巡回の前倒し――は、村全体に向けられた、名前のない圧力だった。だが今度は、違う。僕の名前で、報告が上がっている。
「……いつの話だ」
「今日だ。今日のうちに、上がったらしい」
ダレンは、それだけ言うと、もう一度辺りを見回した。
「詳しいことは、俺にも分からない。だが……もう、後には引けないところまで、来てるんだと思う」
「うん」
「明日、本当に、行くんだな」
「行く」
ダレンは、それ以上何も言わず、小さく頷いて夜道を戻っていった。その背中が見えなくなるまで、僕は戸口に立ち尽くしていた。
匿名だった圧力が、今、初めて僕自身の名前と結びついた。もう、確かめずに済ませる道はない。
村の中で、確かめられることは確かめ尽くした。あとは、外だ。
積み重ねてきた小さな違和感が、一つに繋がる瞬間を、ようやく書けました。




