開けたら戻れないと知って、殻に手をかける
裂け目の縁に、僕は手を伸ばした。
夕暮れの風が、二人の間を静かに通り抜けていく。周囲にはまだあの音のない重さが漂っていた。
指先が触れた瞬間、思わず息を止めた。
冷たかった。獣の皮膚とはまるで違う、硬く滑らかな感触だった。これまで触れてきたどの物とも質感がまるで違う。表面をなぞると、細かい凹凸が一定の間隔で並んでいるのが分かる。まるで、誰かが意図して刻んだ模様のようだった。手のひら全体で圧すと、その凹凸の一つ一つが、同じ高さ、同じ幅で削られているのを感じた。人の手では、到底ここまでブレなく仕上げられない。
夕暮れの光は既に弱く、視覚だけでは細部までは追えない。それでも、指先の感触だけで、この表面がどれほど精巧に作られているかは十分に分かった。風が、また少し強くなった。急がなければ、暗くなる前に村へ帰り着けなくなる。頭の隅でその焦りを感じながらも、僕は手を離せなかった。
「どう?」
リゼが少し離れた場所から聞いた。まだ直接触れる勇気は出ないようだった。
「硬い。……石でも、木でもない」
同じ幅の溝が、等間隔で繰り返されている。村の鍛冶屋が打つ鉄には、必ずどこかに歪みや癖が残る。だが、この模様には、そうした揺らぎが一切ない。井戸の底で見た光の格子や、魔物の骨の均一な艶とも違う、もっと完成した質感だった。
「井戸の光と、同じ感触がする」
僕がそう言うと、リゼも恐る恐る近づいてきて、隣にしゃがみ込んだ。
「本当?」
「うん。……あの時は、ほんの一瞬しか触れられなかったけど。これは、もっとはっきり分かる」
あの日の光は、水面の揺らぎに紛れて一瞬で消えてしまった。今、この手の中にある感触は、消えることなく、ずっと確かめ続けられる。
リゼも、指先で表面をなぞった。
「冷たい。……それに、変な模様」
彼女の言う通りだった。規則的な線が格子のように交差している場所もあれば、丸い突起が並んでいる場所もあった。触れるほど、この模様に意味があるという感覚が強くなっていく。まるで文字のようにも見えた。読めるはずのない、けれど確かに意味を持った並びだった。
「儀式の聖具にも、こういう模様があったよね」
リゼの一言に、僕は思わず顔を上げた。
そうだ。目覚めの儀で使われる聖具。あの精巧すぎる金属質の道具にも、似たような細かい模様が刻まれていた。
「聖具よりも、もっと本物に近い気がする。あれは、これの、簡単に真似た形だったんじゃないか」
その考えに、自分でも背筋が冷えた。聖具という、村で最も神聖に扱われてきた道具が、この荒野に転がる残骸の劣った写しに過ぎないとしたら。これまで信じてきた儀式そのものの意味が、根から揺らいでいく気がした。ダレンが誇らしげに見せた儀式の記憶や、カイルが目を輝かせて語った目覚めの瞬間まで、同じ根から生まれたものだとしたら。村の誰もが信じてきた星の恵みという言葉の意味が、まったく違う形に変わってしまう。
「もし、そうだとしたら……儀式そのものが、何かの真似だったってこと?」
リゼが掠れた声で言った。僕には、まだ答えられなかった。
裂け目の奥を覗くと、内側にも同じような質感の面が続いている。だが、その一部分だけ、表面が大きく捲れ上がっていた。まるで、内側から何かの力が働いて、外へ押し出されたような形だった。
「あそこ、めくれてる」
リゼが僅かに震える声で言った。その奥に何が眠っているのか、まだ誰にも分からない。
もしかしたら、この奥にも、何か生きているものが潜んでいるのではないか――そんな想像が、一瞬、頭をかすめた。だが、この質感は、生き物のどれとも似ていない。未知の何かであることだけが、ゆるぎない確信だった。
心臓が、これまでよりも速く打ち始めていた。恐怖からくる速さなのか、それとも、この先に何かがあると確信したことからくる速さなのか、自分でも判別がつかなかった。
これまでの謎は、証拠を探し、比べ、確かめることで少しずつ答えに近づけた。だが、この捲れた縁の奥に何があるのか、今の僕には、まったく想像がつかない。分からないという感覚そのものが、これまでで最も鋭い棘だった。井戸の光を暴いた時も、聖具の違和感を確かめた時も、答えの輪郭はいつも少しずつ見えていた。今回だけは、その輪郭がまったく描けない。想像がつかないことが、こんなに恐ろしいとは思わなかった。
夕暮れの光が、さらに弱くなっていく。急がなければ、暗くなる前に村へ引き返せなくなる。それでも、この場を離れるという考えは、もう頭に浮かばなかった。恐怖よりも、確かめたいという気持ちの方が、はっきりと勝っていた。
「見るしかないよね?」
リゼが僕の顔を見た。
僕は、深く息を吸い込んだ。乾いた空気に、金属の匂いが強く混じっている。
「うん」
僕は、捲れた縁に両手をかけた。
想像以上に重く、力を入れても、なかなか動かない。長い時間、風雨にさらされて固まってしまったのか、それとも、もともとこれだけ頑丈に作られているのか。額に汗が浮かぶ。乾いた風が、それをすぐに乾かしていくのに、汗は止まらなかった。肩の関節が、じわりと鈍く痛みはじめていた。どれだけの時間、ここにしゃがみ込んでいるのか、もはや自分でも分からなくなっていた。夕日の光は、もう地平線の際まで沈みかけている。思っていたよりも、残された時間は少なかった。
「一緒に、やろう」
リゼも、隣に膝をついて、僕の手の横に自分の手を添えた。手を重ねると、彼女の指先も、僕と同じくらい冷え切っているのが分かった。二人分の温もりが、金属の冷たさに少しずつ溶けていく。それでも、その冷たさが完全に消えることはなかった。
「せーの」
二人同時に、力を込める。
腕に力を込めるたび、心臓の音が、これまでよりも大きく響く気がした。何が出てくるのか、想像もつかない。それでも、もう止まれなかった。
肩に痛みが走るほど力を込めても、殻はなかなか動かない。だが、ほんの少しだけ、指先に伝わる感触が変わった。何かが、内側でわずかに緩んだ手応えだった。
擦れた音が、静寂の中に鈍く響いた。生き物の呻き声にも、金属の軋みにも似た、どちらとも言い切れない音だった。
外側の殻が、少しずつ、めくれていく。隙間から、夕暮れの弱い光が滑り込んでいく。その光の帯が、少しずつ幅を広げていくのを、僕は呼吸を止めて見つめていた。
その奥に、何かが見えてくる。
殻の内側に手をかける回でした。次話は、いよいよ第1幕の大きな山場です。




