なぜ祖母は「疑うな」と言い続けたのか
夕方、僕はセルマと一緒に、庭先で干した豆の選り分けをしていた。虫食いのものと良いものを分ける、地味な作業だ。子供の頃から、何度も手伝わされてきた。
「祖母ちゃん、これ、虫食いだよね」
「ああ、それは駄目だね。よけておいて」
セルマは、老いた指先で豆を一粒ずつ確かめながら、慣れた手つきで作業を進めていた。その横顔を、僕はしばらく見つめていた。
「祖母ちゃん、こういう作業、もう何十年も続けてるんだよね」
「そうだね。ずっと同じことを繰り返してきた。それが、この村での暮らしってものさ」
「飽きたりしない?」
「飽きるとか、そういうことじゃないんだよ。毎日、同じことをする中に、小さな違いがあるのを見つけていく。それが、生きていくってことなんだと、あたしは思ってる」
セルマの言葉は、いつも通り静かで飾らないものだった。だが、今日は、その言葉の一つ一つがいつもより重みを持って僕の中に残った気がした。
豆を選り分け終えると、日がすっかり傾いていた。僕らは笊を持って家の中に戻った。夜の支度を終え、洗い終えた食器を片付けていると、セルマが繕い物の手を止めて僕を呼んだ。
「ノア、ちょっと、こっちに来て」
「うん、何?」
「これ、着ていきなさい」
セルマはそう言って、一枚の外套を僕に差し出した。厚手の布地で、袖口に丁寧な刺繍が入った、見覚えのない品だった。
「これ……いつの間に」
「あんたの旅立ちが決まってから、少しずつ縫ってたんだよ」
セルマの手つきはゆっくりだったが、丁寧だった。老いた指先が糸を結ぶたびに、少しだけ震えているのが見えた。
「祖母ちゃん、こんなの、いつ作る時間、あったの」
「夜、あんたが寝てからさ。大したことじゃないよ」
僕は外套をそっと受け取った。手のひらに、しっかりとした重みがあった。
「ありがとう。……大事に使う」
セルマはそれには答えず、また繕い物に手を戻した。しばらく部屋の中に静かな時間が流れた。壁際の炉から、小さく木がはぜる音がする。
「祖母ちゃん」
「ん?」
「聞きたいことが、ある」
セルマの手が一瞬止まった。それから、またゆっくりと動き出す。
「何だい」
「祖母ちゃんは、ずっと僕に『疑うな』って言い続けてきたよね。なんで、そんなに強く言うのか、聞いたことがなかった」
セルマは、しばらく答えなかった。糸を結ぶ手だけが規則的に動いていた。僕は急かさず、その手の動きを見つめていた。炉の火が爆ぜる音だけが、二人の間を埋めていた。
「……あんたの両親も、疑うことをやめられなかった人たちだった」
その一言に、僕は思わず姿勢を正した。これまで、両親のことに触れると、セルマはいつも話をそらしていた。今夜は初めて、少しだけ踏み込んできた。
「それって……」
「詳しくは話せない。あたし自身、全部を知っているわけじゃないんだ。でも、疑うことが、あの子たちを遠くに連れて行ったのは確かなことだ」
「遠くに」
「そうだよ。だから、あたしは、あんたにはそんな思いをさせたくなかった。ただ、静かに、この村で幸せに生きてほしかった」
セルマの声は、いつもより少し掠れていた。僕は、その言葉の奥に長い間押し殺してきた何かがあるのを感じた。両親のことを話すたび、いつも視線をそらしてきたセルマが、今夜は目を逸らさなかった。それだけで、今夜がこれまでとは違う夜なのだと分かった。
「でも……祖母ちゃんは、僕を止めなかった。今回のことも」
「止めても、あんたは行くだろう。あの子たちと同じ性分をしてるからね」
セルマはそう言って、初めて顔を上げた。その目には、諦めと、それでも消えない不安が同時に浮かんでいた。長年静かに湛えられてきた覚悟が、ようやく言葉になったような、そんな重さがあった。
「だったら、止める代わりに、あたしができることをしよう。そう決めたんだよ」
「それが……この外套?」
「それも、そう。それと、もう一つ」
セルマは繕い物を膝に置き、僕の顔をまっすぐに見た。両手は、いつの間にか膝の上で固く握られていた。
「あんたが、何を見つけようとしているのか、あたしには分からない。でも、もし、見つけたものが怖いものだったとしても……忘れずに帰ってきなさい。怖いものを見た人間ほど、帰る場所を忘れがちだからね」
その言葉は静かだったが、僕の胸に深く残った。セルマがこれまで口にしてきた「疑うな」という言葉の裏に、こんな思いが隠れていたのかもしれない。恐れではなく、失った誰かを二度と失いたくないという、祈りのようなもの。
「忘れない。約束する」
「うん」
セルマはそれだけ言うと、また繕い物に手を戻した。それ以上、何かを語ることはなかった。だが、部屋に流れる空気は、少し前よりも確かに柔らかくなっていた。
僕は外套を肩にかけてみた。少し大きかったが、不思議としっくりと馴染む気がした。
「似合ってるよ」
セルマが手を止めずに、そう言った。声には微かな笑いが混じっていた。
「ありがとう、祖母ちゃん」
「礎はね、あんたが思っているより案外近くにあるものだよ。……たとえ、遠くまで行っても」
その言葉の意味を、僕はすぐにはうまく飲み込めなかった。だが、繰り返し頭の中でその一言をなぞっていた。近くにある礎。それは、この家であり、リゼやカイル、ダレンやトビンとの繋がりであり、そして今、目の前にいる祖母自身のことでもあるのだろう。
「祖母ちゃんも、外套、作るの、大変だったでしょ」
「大変じゃないよ。あんたのためなら、いくらでも針は動く」
セルマはそう言って、少しだけ目元を緩めた。その表情は、いつもの「疑うな」を口にするときの硬さとは違う、柔らかいものだった。
その夜、床に入る前、僕はもう一度外套を丁寧に折り畳んだ。セルマの手で縫われた一針一針が、これまでの十四年間の、言葉にされなかった愛情そのものに見えた。
疑うなと繰り返してきた祖母と、疑うことをやめられなかった主人公。矛盾しているようで、その根っこには同じ、誰かを失いたくないという思いがあったのかもしれない。窓の外で、虫の声が途切れることなく続いていた。旅立ちまで、あと一日。時間が静かに迫っていた。
祖母の優しさに、あらためて気づかされる夜でした。




