誰かが、僕の足取りを数えていた
記録所から戻る道、僕は懐にしまった紙の重さを、何度も指先で確かめていた。リゼが見つけた大伯母の記録。フェインさんの帳面に書き込まれた言葉と、寸分違わず同じ言い回し。持ち歩くだけで、背中がひやりとするような重さがあった。
出発は、もう明日に迫っている。荷物はほとんど整えた。それでも、まだ確かめておきたいことが、いくつも残っていた。
柵沿いの道に出たところで、自衛団の見習いの一人と行き合った。顔だけは知っている、年下の少年だった。
「あ、ノアさん。今日も記録所ですか」
「うん。……なんで分かるの」
「最近、巡回の順路がこの辺りまで伸びてるんです。だから、よく見かけるようになったなって」
「いつから、そんなに伸ばしてるの」
「先週くらいからです。上の人からの指示ですって。……なんでそんなこと聞くんですか」
少年の声に、少しの訝しさが混じっていた。僕は、うまく答えられなかった。
少年は、そう言って軽く頭を下げると、駆け足で去っていった。何気ない一言だったが、胸の奥に小さな引っかかりが残った。巡回の順路が、記録所の周辺まで伸びている。それが、単なる偶然なのか、それとも――。
これまでも、村のあちこちで、巡回が細かくなったという話を、何度か小耳に挟んだことがあった。その時は、単なる噂話だと思っていた。だが、今聞いた一言は、噂よりもずっと具体的だった。
その先を考えかけたところで、見慣れた人影が向こうから歩いてきた。オーレンだった。
「やあ、ノア君」
いつもの、柔らかい声だった。悪意も、咎める色も感じられない。
「オーレンさん。……お疲れ様です」
「最近、記録所によく顔を出しているそうだね」
その一言に、足が止まった。
「え……」
「熱心なのは、いいことだ。若いうちは、色々知りたくなるものだからね」
オーレンは、いつもと変わらない笑みを浮かべていた。だが、僕は何も言っていない。記録所に何度通ったか、そんなことを、誰かに話した覚えはなかった。
「……どうして、それを」
「どうして、というほどのことじゃないよ。この村は狭い。誰が、どこで、何をしているか、案外みんな知っているものさ」
その言い方に、これ以上の説明を求める余地はなかった。オーレンは、それだけ言うと、いつもの巡回の続きへ、ゆっくりと歩いていった。
僕はその後ろ姿を、しばらく見送っていた。背筋の芯のあたりが、じんわりと冷たくなっていく感覚があった。
村は狭い、という言葉だけでは、説明できない気がした。誰かが、僕の行動を、意識して数えていた。そうでなければ、あんなに自然な口ぶりで「よく顔を出している」なんて言えるはずがない。
これまでの通達――記録閲覧の許可制、村全体への巡回の強化――は、いつも名前のない、村全体への圧力だった。だが今の一言は、明らかに違う。僕という、一人の人間の行動を、具体的に把握した上での言葉だった。
さっきの少年が言った「巡回の順路が記録所の周辺まで伸びている」という一言も、今聞き直すと、まるで違う響きに感じられた。単なる巡回範囲の見直しではなく、何かを――誰かを、見張るための動きだったとしたら。
家に戻ると、リゼが戸口で待っていた。
「どうしたの、そんな顔」
「オーレンさんと、会った」
「それだけで、そんな顔になるの?」
「うん。……僕が記録所に何度通ったか、知ってた」
リゼの表情が、静かに強張った。
「言ったの? 誰かに」
「言ってない。誰にも」
「じゃあ、どうして」
「分からない。……でも、誰かが、見てるんだと思う。ずっと」
その言葉を口にした瞬間、これまで積み上げてきた違和感が、一段違う質感を持って胸の中に落ち着いた気がした。噂ではない。誰かの視線が、確かに自分の後ろにある。
「怖い?」
リゼの問いに、僕はしばらく黙った。
「怖い。でも、これで、もう一つはっきりした」
「何が」
「この村の仕組みは、僕らが調べてることを、ちゃんと把握してる。……向こうも、こっちを見てるんだ」
リゼは、それ以上何も言わなかった。ただ、僕の手を、そっと握った。その手の温かさだけが、今の僕にとって、確かな支えだった。
「もし……その仕組みが、ノアを止めようとしたら」
「止められないよ、もう」
「うん」
リゼは、それだけ言うと、小さく頷いた。それから、僕の懐にしまってある紙のことを、ふと思い出したように尋ねた。
「大伯母の記録、まだ持ってる?」
「うん。ここに」
僕は、その重さを、もう一度確かめた。オーレンの一言と、この紙の重さが、今夜、同じ場所に並んで存在している。それがどういう意味を持つのか、まだうまく言葉にできなかった。
「今夜、もう一度、全部を並べ直してみる」
「うん。……あたしも、手伝う」
「いや、今夜は一人で。頭の中を、静かに整理したいんだ」
リゼは、少し寂しそうな顔をしたが、すぐに頷いた。
「分かった。……でも、何かあったら、すぐ呼んで」
「うん。ありがとう」
二人で並んで、家の中に入る。竈の火はまだ入っていなかった。夕食の支度は、今夜は少し遅れそうだった。
出発は、もう明日に迫っている。だが、今夜のうちに、これまでの断片をもう一度並べ直さなければならない気がした。ただの予感ではなく、はっきりとした形を持つ何かが、すぐ近くまで来ている。そんな確信が、静かに胸の中で膨らんでいた。
これまで、この村で調べてきたことは、いつも自分一人で確かめ、自分一人で納得してきたつもりだった。だが今は、少し違う。オーレンの一言、リゼの家の記録、そして今日、あの少年が漏らした一言――どれも、僕がわざわざ探しに行ったわけではない。向こうから、勝手に近づいてきたものだった。まるで、村そのものが、僕に向かって何かを差し出しているような、そんな奇妙な感覚があった。
窓の外、村の家々に、夕餉の煙が一つ、また一つと立ち上っていく。いつもと変わらないはずのその光景を、僕は、これまでとは違う目で見ていた。
明日には、この村を出る。だがその前に、もう一度、確かめておきたい場所があった。井戸だ。あの日、初めて金属質の光を見つけた場所を、出発の前に、もう一度だけ見ておきたい。そう決めて、僕は静かに寝床に入った。
意外な形で信頼が積み重なっていく様子を、書くのが楽しかったです。




