リゼの家の紙にも、同じ一文があった
リゼの家の裏手、物置に使われている小屋で、僕らは最後の荷物を整理していた。木箱の中身を一つずつ確かめ、村に残すものと、持っていくものを分けていく。単調な作業だったが、二人でやると、思いのほか時間が経つのを忘れた。
小屋の中は、埃と乾いた木の匂いがした。窓から差し込む光の筋に、細かい埃がゆっくりと舞っている。
出発の日が近づくにつれ、家々のあちこちで、こうした荷物の整理が始まっている。この小屋も、リゼの家が長く手をつけていなかった、最後の一角だった。
「これ、もう何年も開けてなかった箱」
リゼが、隅に置かれた小さな木箱の蓋を持ち上げた。中には、古い布や糸巻き、色褪せた小物が詰め込まれていた。
「お母さんの、若い頃の物?」
「多分。おばあちゃんが亡くなったあと、そのままここに移したんだと思う。……あ」
リゼの手が、箱の底で止まった。麻布に包まれた、平たい何かを引き上げる。
「何、それ」
「分からない。……開けてみる」
リゼは、丁寧に布を開いていった。中から出てきたのは、黄ばんだ一枚の紙だった。折り目に沿って、今にも破れそうになっている。
しばらく、リゼは黙って文字を目で追っていた。指先が、紙の端を強く握っている。
「これ……大伯母の話だと思う」
「大伯母?」
「お母さんのお姉さん。……あたし、会ったことない。ずっと昔、村を離れたって、それだけしか聞いたことなかった」
リゼは、紙を僕の方に向けて差し出した。僕はそれを受け取り、文面を読んだ。
「療養に出す、との由。経過観察のため、二十日後、再訪の予定。詳細後日追記」
指先が、紙の上で止まった。この言葉を、僕は知っている。
「これ……」
「どうしたの」
「フェインさんの帳面にあった言葉と、同じだ。トビンの家に来た手紙にも」
リゼの顔が、静かに強張った。
境を越えるとの由、詳細後日追記――記録所で見た三人の若者の記録。静養に出す由、詳細後日追記――無ノ子だったマレイさんの記録。経過観察のため、判定より二十日後――フェインさんの家で見た、四十年近く前の帳面。経過観察のため、十日後――トビンの家に届いた手紙。どれも、書いた人も、書かれた事情も、まるで違うはずだった。それなのに、言葉の型だけが、驚くほど揃っていた。
「同じって、どういうこと」
「無ノ子の記録も、境の外に出た人の記録も、みんな『経過観察のため』とか『詳細後日追記』って書かれてた。それが、リゼの家の記録にも――」
言葉が、途中で止まった。うまく続けられなかった。
リゼは、しばらく紙を見つめたまま動かなかった。それから、ゆっくりと口を開いた。
「前に、少しだけ言いかけたことがあったの。覚えてる? 『うちにも昔……』って」
「うん。覚えてる」
「これのこと。大伯母が、ある日突然『療養に出す』って言われて、それで村を出て行った。それから、一度も帰ってこなかった。……ずっと、うちだけの、特別な不幸だと思ってた」
リゼの声が、少しだけ震えていた。
「でも、もしかしたら」
「うん」
「うちだけじゃ、なかったのかもしれない」
その一言が、部屋の空気を変えた。虫の声も、風の音も、しばらく聞こえなくなったような気がした。
僕は、その言葉の重さを、しばらく受け止めきれなかった。これまで、この村の仕組みは、無ノ子や境の外に出た者たちだけの話だと、どこかで区切って考えていた。だが、リゼの家という、ごく普通の一軒の記憶の底にまで、同じ手が伸びていたのだとしたら――区切りなど、最初からなかったのかもしれない。
「大伯母さんが村を出たのって、いつ頃?」
「分からない。お母さんも、あまり話したがらなかったから。……でも、おばあちゃんの代くらいだから、かなり前だと思う」
かなり前――四十年近く前の、あの帳面の記述と、時期が重なるかもしれない。無ノ子の記録とも、境の外の記録とも、接点のないはずの、リゼの家系。それなのに、同じ言葉が使われている。境の柵の内側で、これまでどれだけの家が、同じような紙を、こうして誰にも見せずに仕舞い込んでいたのだろう。そう考えると、この村そのものが、いくつもの小さな沈黙を抱えて、ただ静かに続いてきただけの場所に見えてきた。
「これ、持っていってもいい? 出発の前に、もう一度確かめておきたい」
「うん。……もちろん」
リゼは、紙を丁寧に折り直し、僕の手に握らせた。その手は、まだ少し冷たかった。
「怖い?」
「怖いよ。でも、それだけじゃない」
リゼは、そこで初めて、僕の顔をまっすぐ見た。
「これまでは、ノアが調べてることだと思ってた。……でも、これを見つけたら、もう他人事じゃない気がした」
「うん」
「あたしも、一緒に確かめたい。この村のことも、うちの家のことも」
リゼの声には、これまでにない強さがあった。支える側だけでいることに、彼女自身が違和感を持ち始めていたのかもしれない。
「二人で、確かめよう」
「うん」
僕らは、しばらく黙って、木箱の中身を片付け直した。だが、片付ける手の動きは、さっきまでとは少し違って見えた。単なる荷物整理ではなく、これからの旅の一部が、もう始まっているような感覚があった。
作業を終えて外に出ると、夕暮れの光が、村の屋根の連なりを薄く染めていた。
「セルマには、話す?」
リゼの問いに、僕は少し考えた。
「まだいい。全部が繋がったら、その時に」
「うん。……分かった」
出発まで、あと二日。窓の外、夕暮れの光がさらに薄く傾いていく。僕は、懐にしまった紙の重さを、何度も確かめながら、リゼの家を後にした。
これをセルマに見せるかどうか、他の誰に話すかどうか――その判断も、今の僕にはまだつかなかった。しかし、一つだけはいえた。これで、この村の仕組みは、リゼの家さえ例外ではなかったということだ。
道を歩きながら、頭の中で、あの言葉を繰り返していた。「経過観察のため」「詳細後日追記」。四十年前の帳面。トビンの家の手紙。無ノ子の記録。そして今、リゼの家系からも、同じ言葉が出てきた。
これは、もう偶然では説明できないところまで来ている気がした。
今夜、荷物の最後の確認を終えたら、この紙をどう扱うべきか、もう一度じっくり考えたい。だが今は、まだ答えを急がず、この重みだけを胸に刻んでおくことにした。
いつも通りの一日が、こんなに愛おしく感じる日もあるんだなと思いました。




