カイルにだけ、どうしても言えなかった
自衛団の詰所の裏手で、カイルが木刀の手入れをしていた。刃のない木の柄を布で丁寧に磨きながら、鼻歌のような、調子の外れた歌を口にしている。
「おう、ノア。珍しいな、ここに来るなんて」
「うん。ちょっと様子を見に」
僕は、木箱に腰を下ろした。カイルの隣にいると、いつも時間の流れが少しだけゆっくりになる気がした。
「最近、忙しそうだな。ダレンから聞いたぞ、お前らが何か調べてるって」
「うん、まあ……色々」
言葉を濁すたびに、胸の奥が小さく痛んだ。今日は伝えるつもりで、ここに来た。だが、カイルの顔を見ていると、そのつもりがするりと逃げていく。
「なあ、カイル」
「ん?」
「もし……村の外に、何があるのか、知りたいと思ったこと、ある?」
カイルは、木刀を磨く手を止めて、少し首を傾げた。
「別に、ないな。柵の外は、危ないところだって決まってるだろ。それに、俺は村を守ることがやりたいことだから。外がどうとか、考える意味、あるか?」
その答えは、いつものカイルらしい、まっすぐな答えだった。悪気は微塵もない。それが、僕には少し切なかった。
「俺は、自衛団に入って、この村をちゃんと守れる男になる。それが俺の全部だ。お前は頭がいいから、色々気になるんだろうけどな」
カイルはそう言って、笑った。その笑顔に、これまで何度も救われてきた。だが、今日は、その明るさが僕とカイルの間にある静かな距離をはっきりと浮かび上がらせた。
「そっか」
「なんだよ、変な質問して」
「いや……ちょっと、気になっただけ」
カイルは、しばらく僕の顔を見ていたが、それ以上は詮索しなかった。また手元の木刀に目を戻す。こんなところが、カイルのいいところだと僕はいつも思う。深く踏み込まず、でも完全に興味を失うこともしない。それだけで、僕の方が少し楽になってしまう。
言葉が、そこで止まった。今、この場で「境の外に出る」と言えば、カイルはきっと驚き、心配し、あるいは止めようとするだろう。だが、それ以上に僕が怖かったのは、カイルがその言葉をまったく理解できないかもしれないということだった。
村を守りたい。それだけを真っ直ぐに信じているカイルにとって、「境の外」という選択そのものが、存在しない場所にあるのかもしれない。
「そういえば、来月、氾濫のときの働きが認められて、正式に討伐隊の見習いになれるかもしれないんだ」
カイルの声が少し誇らしげに響いた。
「本当に? すごいじゃないか」
「まあな。……お前が、俺の周期予測を信じてくれたおかげでもある」
その言葉に、僕は思わず木箱の上で姿勢を正した。カイルが、まっすぐに感謝を口にすることは、そう多くない。
「いや、あれは、お前たちが実際に動いてくれたから」
「そうだけどよ。……お前、これからも村にいるよな?」
その問いは何気ない言葉だったはずだ。だが、僕の胸に刺さるように響いた。
「うん……多分」
嘘ではない。だが、正確でもなかった。答えを濁したまま、僕は、視線を木刀の刃先に移した。カイルは、それに気づいた様子もなく、また鼻歌を口にしながら手入れを続けた。
夕方近くになり、僕は詰所を後にした。まだ何も伝えられなかった。伝えようと決めて来たはずなのに、結局、言葉が出なかった。
家への道を歩きながら、カイルとのこれまでの日々を思い返した。共に育ち、共に遊び、共に村の理不尽さに笑い合ってきた仲間。その関係の根っこにあるものは、決して嘘ではなかった。
だが、カイルが真っ直ぐに信じる「村を守る」という道と、僕が選ぼうとしている「村の外を確かめる」という道は、いつの間にかはっきりと分かれてしまっている。それは誰の責任でもない。ただ、そうなってしまった、二人の道の形だった。
家の前で、リゼが待っていた。
「話せた?」
「……ううん」
リゼは、少し驚いた顔をした。それから、何も言わずに、僕の隣に並んで立った。
「無理しなくていいよ。カイルには、いつか、ちゃんと言えばいい」
「うん。でも」
僕は、詰所の方向を、もう一度振り返った。夕暮れの光の中、カイルの声が、まだ微かに聞こえるような気がした。
「カイルに、この気持ち、分かってもらえるのかな。俺は村を守りたい。俺は村の外を確かめたい。……同じ『村のため』なのに、こんなに違う」
「同じじゃなくても、いいんじゃないかな」
リゼの声は静かだったが、確かだった。
「カイルは自分の道をまっすぐ歩いてる。ノアはノアの道を歩いてる。それぞれの正しさがぶつからないように、生きていくしかないんだと思う」
その言葉に、僕は小さく頷いた。答えの出ない問いを、答えの出ないまま抱えておくしかないこともある。今は、それを受け入れるしかなかった。
言えなかった一言が、胸の奥に静かに、重く残っていた。それでも、出発の日は確かに近づいている。
その夜、床に入ってからも、僕は言えなかった一言を何度も口の中で繰り返していた。「境の外に、出ようと思っている」――たったその一言だけなのに、なぜかどうしても口にできなかった。リゼにだけは自然に話せるのに。なぜ、カイルにだけこんなにも重いのか。
その理由に、僕は、すぐに気づいた。カイルの中では、僕はずっと「この村にいる人間」だった。その前提が、今、静かに音も立てずに崩れようとしている。
ダレンに話したときは、これほど迷わなかった。ダレンは、既に何かを察していたからだ。だが、カイルは何も察していない。真っ白なまま、僕の言葉を正面から受け止めることになる。その重さの分だけ、僕は言葉を選び続けているのかもしれない。
いつか、必ず伝えなければならない。それだけは確かだった。だが、それが今日でなくてもいいという自分への言い訳を、僕はまだ捨てきれていなかった。それでも、村を出る前には、必ず。それだけは、自分に約束していた。
窓の外で、虫の声が途切れることなく続いていた。その音を、しばらく聞きながら、僕は目を閉じた。カイルの笑い声が、まだ耳の奥に残っていた。
伝えられなかった言葉も、大切な感情の一つだと思います。




