ダレンが、そっと地図と食料を差し出した
畑の水路の泥を鍬でかき出していると、リゼが隣にしゃがみ込んで、同じ作業を手伝い始めた。
「昨日、あんまり眠れなかった顔してる」
「うん。……色々、考えてた」
僕は、鍬を動かす手を止めずに答えた。セルマの一言、記録所で見た帳面、境の柵――昨日一日で、頭の中にたくさんの断片が積み重なっていた。
「それで、どうする?」
リゼの問いは短かったが、その意味ははっきりしていた。「疑いすぎた者が消される村」だと分かった今も、外へ出るという決断を変えるのか、変えないのか。
僕は、しばらく泥の中の鍬を見つめた。
「変わらない。むしろ、行かなきゃと思う」
「怖くない?」
「怖い。でも、怖いから行かないっていうのは、多分、この村の一番根っこにある考え方なんだと思う。疑うことが怖いから疑わない。それが、ずっとこの村をこうしてきた」
リゼは、しばらく僕を見て、それから静かに微笑んだ。
「うん。……わたしもそれでいい」
その言葉に、少しだけ力が抜けた。恐怖は消えてはいない。だが、二人で確かめ合ったことで、その恐怖に押し流されずに立っていられる気がした。
泥の中の鍬を、もう一度振り上げる。水路の先で、リゼが小さく息をついた。
「さ、先に行こ。完全に乾く前に、この水路、仕上げないと」
「うん」
作業を再開しながら、僕はこれから伝えなければならないことの内容を、頭の中で並べていた。セルマの一言。記録所で見た帳面。しかし、どこから誰に伝えていくのか。その順番だけで、もう何度も思い悩んでいた。
夕方、水路の作業を終えて道具を片付けていると、後ろから声をかけられた。
「おい、ノア」
振り返ると、ダレンが少し離れた場所に立っていた。稽古着のまま、汗を拭う手拭いを肩にかけている。
「ダレン。……どうかした?」
「別に、大したことじゃない。ただ、お前、最近様子が変だな。リゼも一緒に、何か企んでるみたいだし」
僕は返す言葉に迷った。ダレンには、まだ外へ出る計画のことは話していない。だが、ダレンの目は、これまでのような上から見下すような色ではなかった。心配と、それを隠そうとするぶっきらぼうさが混ざっているように見えた。
「言いたくないなら、それでいい。無理に聞かない」
「……ありがとう」
ダレンは少し目を逸らした。それから一度、辺りを見回すと声を落とした。
「実は、俺、勘付いてる。お前が、境の外に出ようとしてるってこと」
「なんで……」
「トビンから、少し聞いた。心配してたぞ、あいつ」
僕は思わず息を止めた。まさか、ダレンにまで話が届いているとは思わなかった。
「止めに来たわけじゃない。……ただ、聞いてほしいことがある」
ダレンはそう言うと、懐から小さな包みを取り出した。手渡されたそれは、乾いた保存食と、折り畳んだ地図の断片だった。地図には、村の周辺の地形が、細かい書き込みとともに描かれている。
「これ……」
「自衛団の見回りで使ってる、境の柵周辺の記録だ。魔物の出やすい場所、避けた方がいい場所、水場の位置――俺が勝手に写した。他の連中には、まだ言うな」
僕は地図とダレンの顔を交互に見た。
「なんで、こんなことを」
「なんでって……」
ダレンは、そこで一瞬、言葉を止めた。眉間に力がこもる。
「お前のこと、昔は気に食わなかった。何でも疑ってかかる態度が、生意気に見えてた。でも――氾濫のとき、お前の読みが俺たちを助けたのは、事実だ」
「うん」
「名主の息子だからって、当たり前に上に立てるもんだと思ってた。でも、氾濫の夜、実際に村を守ったのは俺の立場じゃなくて、お前が積み重ねてきた観察だった。それに気づいてから、色々、考え方が変わったんだ」
「俺は、別に――」
「分かってる。自慢してるわけじゃない。ただ、伝えておきたかった」
「それに、この間、無ノ子のトビンを庇っただろ。あのとき、俺、少し恥ずかしかった。俺は、あいつのこと、ずっと見下してたから」
ダレンの声は、いつもの高圧的な調子とは、まるで違っていた。低く、真っ直ぐな声だった。
「お前が、境の外で何を見つけるのか、俺には分からない。でも、お前が行くって決めたなら、それを止める権利は俺にはない。だから、これぐらいは渡しとく」
「ダレン……」
「戻ってきたら、ちゃんと話を聞かせろよな。お前が見てきたものを」
その一言に、僕はしばらく何も言えなかった。かつて名主の権威を後ろ盾に僕らを見下していたダレンが、今、こうして密かに手を貸そうとしている。その変化の大きさに、胸の奥がじわりと熱くなった。
思えば、氾濫の夜まで、僕とダレンは正面からぶつかることの方が多かった。あの日の共闘がなければ、今、この地図を僕は手にしていなかったかもしれない。人と人の関係が、一つの出来事を境にこんなにも変わっていくのだと、改めて実感した。
「ありがとう。……絶対に、聞かせるよ」
「うん。それでいい」
ダレンはそれだけ言うと、踵を返して歩き去っていった。その背中を、僕はしばらく見送っていた。
隣で、リゼが小さく笑った。
「ダレンが、あんなこと言うなんて。……変わったね」
「うん。本当に」
僕は、手の中の地図をもう一度見つめた。細かい書き込みの一つ一つに、ダレンのこれまで見えなかった気遣いが詰まっている気がした。
外へ出るという決断は、これまで僕とリゼ、二人だけのものだった。だが、今初めて、村の中にそれを支えてくれる誰かが確かに増えたのだと分かった。
家に向かって歩き出しながら、僕はふと思った。次に伝えるべき相手はカイルだ。だが、カイルにこの話をすることは、ダレンに話すよりもずっと難しい気がした。
夕飯のため、家の中に入ると、セルマがいつものように竈の前で鍋をかき回していた。僕は、手の中の地図をこっそり懐の中に入れた。今はまだ見せられない。セルマにも、カイルにも。この地図の重さをどこで、どちらに伝えるべきなのか、僕自身まだ整理しきれていない。
ダレンの変化が、思いがけない後押しになりました。




