この柵は、誰を閉じ込めるためのものか
翌日、記録所を訪ねた。この間、モーガス爺さんから聞いた三人の若者の記録を、もう一度確かめておきたかった。
記録所の前に、見慣れない張り紙が新しく貼られていた。名主フェインの署名入りで、「今後、古い記録の閲覧には、事前に名主の許可を得ること」とある。記録所に入る前に、一度名主の家に立ち寄った。「調べ物です」――それだけを口にすると、フェインは存外あっさりと頷いて、許可を出してくれた。
あんなに簡単に通るなら、そもそも止める気なんてないのかもしれない――そう思うと、逆に落ち着かなかった。
記録係のダンさんは、僕の顔を見るなり、少し怪訝そうな表情を浮かべた。
「またその話か。……好きだな、あんたも」
「もう一度だけ、見せてください」
古い帳面を、また開いた。三人の若者の名前が記された箇所は、やはり途中で綺麗に途切れている。前に見たときは、単に「記録の欠落」としか思わなかった。だが、今は違う目で、それを見ていた。
疑いすぎたんだよ――昨夜、セルマがそう口にした一言が、まだ胸の奥に残っていた。単純な言葉だ。だが、その単純さの奥に、これまで見てきたどの謎よりも重いものが沈んでいる気がした。
途切れた行のすぐ手前まで、筆跡は几帳面に名前や日付を刻んでいる。それが、ある一行で唐突に止まる。まるで、誰かがそこで筆を置くよう命じられたかのように。
「ダンさん。この後、続きの帳面って、他にないんですか」
「ないよ。あったとしても、俺は見せられない。……あんた、それ以上、あんまり根を詰めない方がいい」
「……なぜですか」
僕が静かに聞き返すと、ダンさんは一瞬、視線を逸らした。
「……前にも、似たようなことを言って、痛い目を見た奴がいた」
言った直後、ダンさんは自分の言葉に気づいたように顔をしかめた。
「……いや、なんでもない。年寄りの、たわけ話だ。今の話は、聞かなかったことにしてくれ」
その場では、意味を掴めなかった。だが、「痛い目を見た奴」という言葉だけが、なぜか胸の奥に残った。
ダンさんの声に、いつもの軽さはなかった。それが、かえって僕の背筋を冷やした。
家に戻り、リゼに、記録所で見たものを話した。
「セルマは、『疑いすぎた』って言った。あの三人の記録の途切れ方と、無ノ子の記録の途切れ方――同じだった」
リゼは、しばらく黙って僕の言葉を聞いていた。
「疑ったから、消された。……そういうこと?」
「多分。でも、それだけじゃ説明にならない。誰が、どうやって消してるのか。なぜ、疑うことがそんなに危険なのか。……分からない」
「消されるって、殺されるってこと?」
リゼの声が微かに震えた。僕は、すぐには答えられなかった。
「分からない。……村を追い出されるだけかもしれない。もっと別の何かかもしれない」
「うん」
リゼは、膝の上で両手を強く握りしめた。
「でも、輪郭は見えてきた。何となく、この村の仕組みが」
その言葉を、僕は静かに繰り返した。仕組み。そう、それは単なる噂や偏見ではない。何かが、一定の法則に従って動いている。三人の若者。無ノ子と呼ばれた過去の者たち。境の柵の外に出た者たち。そして、両親。すべてが、同じ一本の線の上に乗っているように思えた。
「疑うことが罰される。そういう村なんだ、ここは」
自分の口から出た言葉に、僕自身、少し驚いた。これまで、村を「疑わない村」だとは思っていた。だが、それを一歩越えて「疑う者を罰する村」だと言葉にしたのは、初めてだった。
「怖い?」
リゼの問いに、僕は、少し考えてから答えた。
「怖い。でも、それだけじゃない」
「うん?」
「これまでは、ぼんやりとした違和感だった。井戸の光、帳簿の改ざん、無ノ子の記録――全部、別々の点みたいにぽつぽつと浮いていた。でも、今は、その点と点を繋ぐ線が見えかけてる」
その線の先に、何があるのか。それは、まだ分からない。だが、線が見えたことそのものが、僕の中で新しい何かを静かに灯していた。
夕方、僕は一人で境の柵の方へ歩いた。柵の向こうには、いつもと変わらない乾いた風景が広がっている。だが今、この柵を見る目は、これまでとは違っていた。
――これは、外の脅威から村を守るための柵じゃない。
――むしろ、疑いすぎた者を外へ閉じ出すための柵なんじゃないか。
その考えが頭に浮かんだ瞬間、体の奥で何かが細く、鋭く震えた。喉の奥がざらついたような感覚が、しばらく消えなかった。
「柵の、あっち側に、あの三人がいるのかな。それとも」
呟いた声が、風に流されて消えた。答える者は、誰もいない。
村に戻ると、カイルが、自衛団の稽古を終えた様子で水を浴びていた。彼が、こちらに気づき、軽く手を上げる。
「おう、ノア。今日も、何か調べてたのか」
「うん……まあ、少し」
「相変わらず、忙しいな、お前は」
カイルの声は、いつもと変わらず明るかった。だが、その明るさが、今日は少しだけ遠く感じられた。カイルは、まだ何も知らない。この村の仕組みの輪郭を知らないまま、ただ素直に日々を過ごしている。
その素直さが、羨ましくも危うくも、同時に思えた。
家に戻ると、セルマは、いつものように竈の前にいた。今日は何も聞かなかった。それでも、セルマの方から視線をこちらへ向けた。
「……また何か調べてきたのかい」
「うん。少し」
「そうかい」
セルマは、それだけ言うと、鍋に視線を戻した。だが、その一瞬、僕を見た目には、これまでにない複雑な色が浮かんでいた。心配と諦め、それにほんの少しの期待が滲んでいるようだった。
夕食の後、リゼが帰り際に戸口で、ふと足を止めた。
「ノア。もし、その仕組みの正体が、思ってたよりずっと大きなものだったら――どうする?」
「大きなものって?」
「分からない。ただ、何となく、そんな気がするの。この村だけの話じゃないような」
その言葉は、これまで僕自身うまく言葉にできなかった予感と、静かに重なった。境の柵の向こうに広がる乾いた風景。あの荒野の匂いを村の誰も知らないはずなのに、僕だけが繰り返し思い出してしまう。それが、単なる想像ではないとしたら――。
「そうかもしれない。でも、それでも確かめるしかない」
「うん。分かってる」
リゼは、それだけ言うと、静かに家路についた。その背中を見送りながら、僕はまた一つ、恐怖の重さが増したことを感じた。
その夜、床の中で、僕はこれまでの断片をもう一度順番に並べ直した。井戸の光。帳簿の改ざん。無ノ子の記録の空白。三人の若者。両親の死の不自然な空白。そして、「疑いすぎたんだよ」という、セルマの一言。
すべてが、一つの仕組みの中に収まっていく。だが、その仕組みを動かしているものの正体は、まだ分からない。誰が、何のために、疑う者を消しているのか。
分からないことが、これほど多いのに、なぜか恐怖と同じ強さで、もう一つの感情が体の奥から湧き上がってきた。
――だからこそ、知りたい。
その決意は、恐怖と同じ場所から生まれていた。矢のように鋭く、体の中心を貫いていく感覚だった。眠りに落ちる直前、僕は、そのことを確かに理解した。もう、後戻りはできない。この輪郭の先を見届けるしかない。
輪郭が見えてきましたが、まだ核心は先です。




