問い詰めるのをやめたら、祖母が語り出した
翌朝、井戸端で水を汲んでいると、リゼが桶を片手に近づいてきた。
「セルマさん、まだ部屋から出てこない?」
「うん。今朝も声をかけたけど、返事がなかった」
汲み上げた水を桶に注ぎながら、僕は答えた。夜通し、あの一言――「怖いんだよ」――が頭の中で何度も繰り返されていた。
リゼが僕の隣にしゃがみ込んだ。
「今日も行く?」
「うん。でも今日は問い詰めない。ただ隣にいるだけにする」
昨日、僕はセルマを問い詰めすぎた。答えを急いだせいで、セルマはまたあの部屋に閉じこもってしまった。今日は、違う方法を試したかった。
「隣にいるだけって?」
「うん。何も聞かずに、そばにいる。それだけ。……セルマが話したくなるまで」
リゼは、少し驚いたような顔をしてから、小さく頷いた。
「うん。それがいいと思う」
昼を過ぎた頃、家の戸が静かに開いた。セルマだった。何日も部屋に籠っていたはずなのに、いつもと同じ、竈の前の場所に迷いなく腰を下ろす。まるで、そこ以外に、自分の居場所がないかのようだった。
僕とリゼは、何も言わずに、少し離れた場所に座った。何かを尋ねる代わりに、ただ、そこにいた。竈の火が、ぱちんと小さく音を立てた。
長い時間が流れた。誰も、言葉を発しなかった。セルマは、鍋の中身をかき混ぜることもせず、ただ火を見つめていた。
窓の外で、鳥が一声鳴いて、飛び去った。その音だけが、しばらく家の中の静けさをかすかに揺らした。僕は、何度も口を開きかけては思い直し、また閉じた。今日は急がないと、それだけを自分に繰り返し言い聞かせていた。
リゼも、同じように、じっと待っていた。膝の上に置いた両手は、少し白くなるほど握られている。それでも、彼女は何も言わなかった。
「……昨日は悪かったよ」
セルマがふいにそう言った。僕は、思わず顔を上げた。
「怖がらせるつもりじゃなかった。ただ……あんたが、こうしてここまで来たことが、少し怖かった」
「うん。分かってる」
「あんたの父さんも、そうだった」
セルマの声が、初めて少しだけ柔らかくなった。
「小さい頃から、何でも聞いてくる子だった。なぜって、なぜって。母さんも、それをうるさがるどころか面白がってたよ。二人でよく、答えの出ない話を夜通ししていた」
僕は、初めて聞く両親の話に、息を止めた。これまで、セルマは、両親のことをほとんど語らなかった。名前を口にするだけで、話を打ち切ることが多かった。
「そんな話、聞いたことなかった」
「言えなかったんだよ。楽しかった話をすると、その後のことも思い出さなきゃならないから」
セルマの手が膝の上で静かに重なった。指先が微かに震えている。
「セルマ。もし話せるなら……その後のことも知りたい」
「……知りたいか」
セルマは、しばらく僕の目をじっと見た。これまで見たことのない、真っ直ぐな視線だった。何かを、確かめているような、そんな目だった。
リゼが、僕の隣で静かに姿勢を正した。それだけで、空気が少し変わった気がした。
「セルマさん。無理にとは言いません。……でも、ノアはもう逃げないと思います」
セルマは、リゼの言葉に目を細めた。それから、ゆっくりと視線を鍋の方へ落とした。
「……そうだね。あんたたちはもう、決めてるんだね」
「うん」
沈黙が、またしばらく続いた。竈の火が、じりじりと木を焼く音だけが、家の中に響いていた。
「あんたの父さんと母さんは……」
セルマの声が、そこで一度、途切れた。喉の奥で、何かを飲み込むような音がした。
「疑うことを恐れなかった」
「うん」
「それが間違いだったとは、今も思ってない。でも……あの二人は」
セルマの目に、涙が浮かんだ。それを拭おうともせず、セルマは続けた。
「あの子たちは……疑いすぎたんだよ」
その一言が、家の中に静かに落ちた。竈の火の音以外、何も聞こえなかった。
僕は、その言葉の意味を、すぐには掴めなかった。だが、確かに何かが動いた。長い間閉じられていた扉のほんの一部が、初めて開いたのだと分かった。
「疑いすぎた……って」
「それ以上は……今は聞かないでくれ」
セルマは、そう言うと、両手で顔を覆った。指の間から、小さな、震える息が聞こえた。
僕は、それ以上、何も言えなかった。今、この一言だけで十分だった。これまで、セルマの口から、両親について、こんなに具体的な言葉が出たことは一度もなかった。
リゼが、そっとセルマの肩に手を置いた。セルマは、その手を拒まなかった。
「今日は、これで十分です」
リゼの声は、静かだったが、確かな重みを持っていた。セルマは、顔を覆った手の下で、小さく頷いたように見えた。
僕らは、しばらくそのまま、そこにいた。誰も動かなかった。竈の鍋から立つ湯気だけが、ゆらゆらと、天井に向かって伸びていった。
「セルマ。ありがとう」
僕がそう言うと、セルマは、ようやく顔を上げた。目は赤く、頬には涙の跡が残っていたが、その顔には、これまでにない何かがあった。長い間、一人で抱え続けてきた重さのほんの一部を、ようやく誰かに預けられたような、そんな安堵だった。
「……もう少し待っててくれ。全部はまだ話せない」
「うん。待つよ」
セルマは、それだけ言うと、静かに鍋をかき混ぜ始めた。いつもの、日常の動きだった。だが、僕には、それが、これまでとは違う何かの始まりのように見えた。
家を出て、井戸端まで戻る道で、リゼがぽつりと言った。
「疑いすぎたって……どういう意味だと思う?」
「分からない。でも」
僕は、空を見上げることもせず、ただ足元の土を見つめながら答えた。
「今日、初めて、セルマの口から両親のことが言葉になった。それだけで前に進んだ気がする」
夕暮れの風が、二人の間を、静かに通り抜けていった。まだ何も分かっていない。だが、長年固く閉じられていた扉に、確かな隙間ができた。その隙間の向こうに何があるのか――それを知る日は、もう、遠くない気がした。
家に着くと、竈の煙がまだ細く立っていた。リゼがその煙を見上げて、小さく息をついた。
「今日、セルマさんの顔、少しだけ軽くなってたと思う」
「うん。僕もそう思った」
長い間、一人で抱え続けてきた重さを、たった一言でも、誰かに預けられたなら――それだけで、何かが変わり始めるのかもしれない。僕は、そう信じたかった。
セルマの口から、初めて核心に近い言葉が出ました。




