セルマは「怖いんだよ」と認めた
リゼと一緒に行くと決めてから、僕は一度、家に戻って、セルマの様子を見た。あの夜以来、セルマは、僕と、必要最低限の言葉しか交わさなくなっていた。夕飯も、竈の前で黙って作るだけ。会話は、いつも途中で静かに切れる。
翌日の夕方、リゼと二人で、家の戸を開けた。
セルマは、竈の前で静かに鍋をかき混ぜていた。この間の夜以来、何かを聞かれることを恐れているような、そんな空気が、ずっと家の中に残っていた。
「セルマ、ただいま」
「……おかえり」
セルマの声は小さかった。振り返らずに、鍋の方だけを見ている。僕はリゼと目を合わせ、小さく頷いた。今日は逃げずに話す。それだけは決めていた。
「セルマ、少し聞いてほしいことがある」
セルマの手が、鍋の縁で止まった。
「今度は、何だい」
その声には、諦めのような響きが混じっていた。まるで、いつかこの日が来ることを、ずっと前から分かっていたかのような、そんな響きだった。
「今日、モーガス爺さんに会って、昔、境の外に出て、戻らなかった三人の若者の話を聞いた。名前は、もう誰も覚えてないって。それから、記録所と、神官様のところで、その三人の記録を見た。……途中で、綺麗に途切れてた」
セルマは答えなかった。ただ、鍋をかき混ぜる手の動きが、少しずつ遅くなっていった。
「無ノ子の記録の途切れ方と同じだった。誰かが意図的に、そこで書くのをやめさせたみたいな」
「……何が言いたいんだい」
「もしかしたら、父さんと母さんの記録も、同じように消されてるんじゃないかって思って」
セルマの背中が、はっきりと、震えた。木の匙が、鍋の縁を叩く小さな音がした。
リゼが、そっと僕の隣に立った。それだけで、少し話しやすくなった気がした。
「セルマさん。ノアは、無理にセルマさんを困らせたいわけじゃないんです。ただ、本当のことを知りたいだけで」
セルマは、ゆっくりと、こちらを向いた。その顔に浮かんでいたのは、あの夜と同じ剥き出しの怯えだった。だが、今日はそれに、もう一つ、別の色が混じっていた——何かをこらえているような、そんな表情だった。
これまで、僕が見てきたセルマは、いつも穏やかで、少し口うるさいだけの育ての親だった。「疑うことは危ないことだよ」——その言葉を何度も、耳が痛くなるほど聞かされてきた。だが、今、目の前にいるセルマは、その忠告の裏に、こんなにも深い恐怖を隠していたのかと思うと、僕はこれまで自分が見ていたセルマの姿が、いかに一面的だったのかを、初めて思い知らされた気がした。
「……三人の話を、誰から聞いたって?」
「モーガス爺さんから」
「あの爺さんが、まだその話を覚えてたのかい」
セルマの声には、驚きが混じっていた。ただの驚きではない。まるで、その話がもう、この村から完全に消え去っているはずだと思い込んでいたかのような、そんな響きだった。
「セルマは、その三人のこと、知ってるの?」
セルマは、しばらく口を開かなかった。竈の火が、ぱちんと小さく爆ぜた。
「……昔の話だよ」
「セルマ」
「あんたが思ってるほど、単純な話じゃないんだ」
その言葉に、僕は思わず身を乗り出した。
「単純じゃない、って——」
「これ以上は言えない」
セルマは、はっきりとそう言い切った。だが、その声はこれまでで一番、弱々しく震えていた。
「セルマさん」
リゼが静かに口を挟んだ。
「怖いから、言えないんですか」
セルマの目が、大きく見開かれた。それから、ゆっくりと下を向いた。
「……そうだよ。怖いんだよ」
その一言だけで、これまでのはぐらかしや誤魔化しとは、まるで違う何かが伝わってきた。セルマは確かに何かを知っている。それだけでなく、その何かを今話すことそのものを、心の底から恐れている。
「誰を怖がってるの」
セルマは答えなかった。ただ、震える手で鍋の縁を強く握りしめた。指の関節が、白くなっているのが見えた。
「セルマ。もし本当に何か理由があって話せないなら……せめて教えて。わたしたちが、これ以上知らない方がいいことなの?」
リゼの問いに、セルマは一瞬、顔を上げた。その目に、迷いのようなものが揺れた。答えかけて、また口をつぐむ。何かを言おうとする動きと、それを押し戻す動きが、彼女の中で何度もせめぎ合っているように見えた。
「……お前らには、まだ早い」
「セルマ」
「今日は、もう勘弁してくれ」
セルマはそう言うと、鍋を置いて、そのまま自分の部屋へ逃げるように入っていった。扉が静かに閉まる音がした。
僕とリゼは、しばらくその閉まった扉を黙って見つめていた。
「……何か知ってる」
「うん」
「それに、誰かを本気で怖がってる」
リゼが、そっと僕の隣に立った。その温もりだけが、今確かなものだった。
「あの目、見た?」
「うん」
セルマの目に浮かんでいたのは、単なる困惑や拒絶ではなかった。もっと深く根の張った、何年もかけて積み重ねられてきたような怯えだった。これまで村の誰の顔にも見たことのない、独特の重さを持った怯えだった。
「あれは、まだ全部話すつもりの目じゃなかった」
「でも、いつか」
「うん。いつか話してくれる。そんな気がする」
竈の鍋は、火にかけたまま静かに湯気を上げ続けていた。誰も、それを止めようとはしなかった。窓の外は、いつの間にかすっかり暗くなっている。
僕は、閉まった扉にもう一度、視線を向けた。セルマの中にある恐怖の正体は、まだ遠い。だが、今日その怯えの深さだけは、確かに見えた気がした。彼女が抱えているものが、単なる古い記憶ではなく、今も誰かを——あるいは何かを——本気で恐れさせるだけの重さを持っているということも。
リゼが、火にかけたままの鍋をそっと竈から下ろした。
「今日は、これくらいにしとこう。セルマさんにも時間が必要だと思う」
「うん。……ありがとう、リゼ」
「一緒に来るって決めたのは、わたしだから」
その一言に、少しだけ救われた気がした。一人だったら、今日、僕はもっと踏み込んでいたかもしれない。そうすれば、きっとセルマは、もっと深く心を閉ざしてしまっていただろう。
僕らは、静まり返った家の中で、しばらく火の消えた竈を見つめ続けていた。
やがて、リゼが小さく息をついた。
「少し外の風にあたろうか」
家を出ると、広場の方から、いつもより多くの人の声が聞こえてきた。行ってみると、村長フェインが村人たちの前に立ち、二つのことを告げているところだった。
「今後、村の古い記録——埋葬台帳、供物帳、来歴記録——の閲覧には、名主の許可が必要になる。記録の保全のためだ」
村人たちの間に、小さなざわめきが広がった。フェインは、その声を抑えるように、少し声を張った。
「もう一つ。今年は、調律士様の巡回が例年より早まっている。境ノ村への訪問も、思っていたより早くなる見込みだ」
いずれも、行政上の理由としてはごく無害な言葉だった。だが、その二つが、僕とトビンが記録を調べ始めた直後というこの時期に、揃って告げられたことに、僕は思わず息を止めた。
証明する手立てなど、どこにもない。それでも、この符合を、僕はただの偶然として片付けることができなかった。
リゼが、隣で小さく呟いた。
「偶然、かな」
「分からない。でも……これで、確かめる時間が、前よりずっと少なくなった気がする」
僕らは、広場の喧騒を背に、しばらく黒い夜道に立ち尽くしていた。
セルマの怯えの奥に、まだ何かがありそうです。




