記録係の口を割らせ、リゼが同行を申し出た
翌朝、僕は真っ先に記録所へ向かった。次に確かめるべきことは、もう決まっていた。
戸を叩くと、ダンさんがすぐに顔を出した。
「また来たのか」
声の無愛想さは、いつもと同じだった。
「すみません。もう一つだけ、確認したいことがあって」
「聞いてやる。手短にな」
前日、神官の詰所で見た二つの記録のことを、僕はそのまま口にした。
「無ノ子だったマレイさんの記録には、『静養に出す由、詳細後日追記』とありました。境の外に出て戻らなかった三人の若者の記録には、『境を越えるとの由、詳細後日追記』。言葉は違うのに、形が、そっくりでした」
ダンさんの手が、帳面の上で止まった。
「それだけじゃありません。三人の家族にも、マレイさんの家族にも、『見舞いの品、下賜』という一文がありました。誰が贈ったのかは、どちらにも書かれていません」
「……それが、何だってんだ」
その声は、いつもより早口だった。僕は、その速さを見逃さなかった。
「もう一つ。モーガス爺さんに、あちこちで聞き回るなと言われた、その同じ日に、あなたにも、ほとんど同じ言葉で言われました。あなたと、モーガス爺さんに、繋がりなんてないはずですよね」
ダンさんの頬の筋が、大きく引きつった。視線が、一瞬、僕の顔から逸れて、そのまま戸口の方へ動いた。
「……坊主。それ以上は、聞くな」
「教えてください。なんで、同じ言い回しばかりなんですか」
長い沈黙があった。ダンさんは、帳面を握る手に、力を込めた。
「俺は……言われた通りに、書いてるだけだ」
言い終えた瞬間、ダンさん自身の表情が、しまった、と言いたげに固まった。
「……今の、忘れろ」
「言われた通りって——誰に言われたんですか」
「それ以上は、俺も言えない。本当に、知らないんだ」
ダンさんは、そう言うと目を逸らし、帳面を抱えて詰所の奥へ引っ込んでいった。
僕は、しばらく戸口に立ったまま、動けなかった。
記録の書き方そのものが、誰かの指示で、決められている。ダンさんも、その「誰か」までは、知らないらしい。
外に出ると、風が強く吹いていた。勝った、という感覚の後ろに、薄い刃のような警戒が、静かに貼りついていた。
家に戻ったのは、日が傾きかけた頃だった。あれから何時間も、当てもなく村の外れを歩き回っていた。頭の中を、まだうまく静められなかった。
家の裏手で薪を割っていると、リゼが静かに近づいてきた。
斧を振るう音だけが、しばらく庭に響いていた。空はまだ薄い金色を残していて、風はいつもより湿って重かった。
「ノア。ちょっといい?」
「うん。どうかした?」
リゼはしばらく僕の手が止まるのを待っていた。斧を置くと、彼女は真っ直ぐに僕を見た。
「この間、聞かれたこと。……まだ全部は話せない。でも、少しだけ話しておきたくて」
僕は黙って続きを待った。あの日、垣根の向こうで、リゼが「うちにも、昔」と言いかけて止めたことを、僕はまだはっきりと覚えていた。
「うちにも、昔あった話がある。今は、まだはっきり言えない。……でも、それより今伝えたいことがあって」
リゼは少し息を整えた。
「ノアが、両親のことを調べてるのも、三人が消えたって話も、無ノ子の記録のことも……全部、トビンから少し聞いた」
「トビンが?」
「心配して、教えてくれたの。ノアが一人で、大きすぎるものに手を出そうとしてるんじゃないかって」
僕は返す言葉を見つけられなかった。トビンの気遣いは確かにありがたい。だが、リゼにまで話が届いていたことに少し戸惑いもあった。
「……心配、させてるよね」
「うん。すごく」
リゼははっきりとそう言った。それから少し笑って続けた。
「でも、心配してるだけじゃ駄目だなって思った」
「え?」
「わたしいつもそうしてきた。何か引っかかることがあっても、見なかったことにして、みんなが安心してる方を選んできた」
リゼは少し目を伏せた。
「トビンが無ノ子って言われたときも、最初はうまく声をかけられなかった。ノアの異質さに気づいてても、長い間それも、見ないふりをしてた。……ずっと、そうやって丸く収めることばかり考えてきた気がする」
リゼの声は、いつもより少しだけ硬かった。だが、その硬さの奥に何か決意のようなものが見えた。
「でも、今回はそうしたくない。ノアが村の外にまで踏み出そうとしてるのに、わたしだけここで、安心してるふりをするのは、もう嫌なの」
「リゼ……」
「わたしも、一緒に行きたい。両親のこと、三人が消えた話、記録のこと——全部、ノアと一緒に見たい。もう見なかったことにしたくない」
その言葉は、はっきりと迷いのない声で僕の耳に届いた。
思えば、リゼが誰かのために本気で"見なかったこと"をやめたのを、僕はこれまで見たことがなかった。彼女の優しさは、いつも対立そのものを避ける方向に働いていた。だから、今リゼが自分から踏み込む側に足を踏み出そうとしているのが、僕には少し信じられなかった。
リゼはいつも、疑う力を笑わずに受け止めてくれる存在だった。だが、今目の前にいるリゼは、初めて自分自身の言葉で、自分の意志を口にしていた。
「危ないかもしれない。まだ何が待ってるかも分からない」
「知ってる。それでも」
リゼははっきりと言い切った。
「知らないままでいる方が、今のわたしには、もっと怖い」
その一言に、僕は何も言えなくなった。彼女の中で、確かに何かが変わったのだと分かった。ずっと、周りの安心を優先してきたリゼが、初めて自分自身の望みを、はっきりと選んだのだ。これまで見てきたどのリゼとも、少しだけ違っていた。
「……分かった」
僕はようやくそれだけを口にした。
「一緒に確かめよう」
リゼは少し驚いたような顔をして、それからゆっくりと笑った。いつもの明るい笑顔とは、少し違う、静かで強い笑顔だった。
「うん」
薪割りの手を止めたまま、僕らは、しばらくそこに立っていた。夕暮れの光が、二人の影を長く、地面に伸ばしていた。虫の鳴き声が、遠くの藪から途切れることなく続いていた。
リゼがふと口を開いた。
「この間、聞かれたこと。うちの昔の話——いつかちゃんと話すから」
「うん。待つよ」
「今日じゃなくて、ごめん」
「大丈夫。リゼが決めたときに、話してくれればいい」
「……ありがとう」
リゼは小さくそう言った。その一言だけで、少し彼女の肩から力が抜けたのが分かった。
「ノアが、どんなに大きなことでも待ってくれるって知ってるから。だから、わたしも、いつかちゃんと話せる気がする」
僕はふと、なぜリゼが今日、この一歩を選んだのか、少し気になった。
「今日、話そうって決めたのは、何かきっかけがあったの?」
「うん。トビンから話を聞いて、怖くなった。ノアが一人で、どんどん先に進んでいくのが見えたから。……このまま、ただ見てるだけだったら、いつかノアが一人で、遠くに行っちゃう気がした」
その一言が、静かに僕の胸に落ちた。リゼが本当に怖がっていたのは、村の外の何かではなく、僕が一人で先へ進み、彼女の隣からいなくなることだったのだと、初めて分かった。
リゼは小さく頷くと、薪の束を拾い上げた。
「じゃあ、今度はセルマさんの話、聞きに行く?」
その一言に、僕は少し息を止めた。セルマの、あの怯えた顔が頭に浮かんだ。あの夜、彼女がしゃがみ込んだまま、両手で顔を覆っていた姿を、僕はまだ忘れられていない。だが、リゼが隣にいるなら、今度こそもう少し深く踏み込めるかもしれない。一人では、あの恐怖の壁を、どうしても崩せそうになかった。
「うん。行こう」
僕らは薪を抱えて、家へ向かって、並んで歩き始めた。二人分の足音だけが、静かな夕暮れの道に、規則正しく響いていた。
誰にも頼らず、それが自分だけのやるべきことだと、どこかで思っていた。だが、隣を歩くリゼの足音を聞きながら、僕は初めて、一人でやり続けなくてもいいのかもしれないと思った。
家の灯りが、少しずつ、近づいてくる。セルマが今も、あの部屋の中で、震えているかもしれない。だが、隣にリゼがいる。それだけで、これまでとは違う一歩を、踏み出せそうな気がした。
リゼの決意が、次の一歩になりました。




