消えた三人の名を、誰も覚えていない
村外れへの道を、僕は歩いていた。目指す先は、村で一番歳を取っていると言われるモーガスの家だ。子供の頃、広場で彼の語る古い掟話を聞いたことはあるが、家を訪ねたことは一度もなかった。
リゼの言葉も、両親のことも、このままではどちらも先に進めない。村の一番古い記憶を持つ人なら、何か知っているかもしれない。
村外れの、朽ちかけた木戸の前に立つと、僕は少し迷った末にその戸を叩いた。
「誰だい」
しゃがれた声が、すぐに返ってきた。
「ノアです。ちょっとお話を聞きたくて」
戸の向こうで、何かを引っかくような音がして、それからゆっくりと戸が開いた。顔を出したのは、村で一番歳を取っていると言われる老人、モーガスだった。
「ほう。カルヴィンの坊主か。珍しいな、お前がここに来るのは」
「すみません、急に。少し前から、村の古い話を聞きたくて」
モーガスは、僕をじっと見つめた。皺だらけの目の奥に、わずかな興味の色が浮かんだ。
「まあ、入れ。茶ぐらいなら出せる」
小さな一間の家の中は、乾いた薬草の匂いで満ちていた。壁には、見たこともない形の道具がいくつも並んでいる。僕は勧められた椅子に腰を下ろした。
「で、何を聞きたいんだ」
「境の外に出た人の話です。……昔から、そういう人がいたって、聞いたことがあって」
モーガスの手が、茶を注ぐ動きを一瞬だけ止めた。その、ほんの小さな止まり方を、僕は見逃さなかった。何かを思い出したのか、それとも思い出すことをためらったのか。そのどちらなのかまでは、この場では分からなかった。
「またその話か。最近の若いのは、みんなその話を気にするな」
「最近の若いの、って?」
「いや、いい。それより、なんでそんなことを聞くんだ」
僕は、少し迷った。セルマのこと、両親のこと、まだ他人に話すには早すぎる気がした。だから、当たり障りのない答えを返した。
「境の柵の外がどうなってるのか、気になって。子供の頃から、疑うなって言われてきたけど、その理由がずっと分からなくて」
モーガスは、しばらく黙って、僕を見ていた。それから、湯気の立つ茶碗を僕の前に置いた。
「お前くらいの歳の頃、村に、三人の若いのがいた」
その言い方に、僕は思わず、身を乗り出した。
「三人?」
「ああ。仲のいい連中でな。ある日、境の柵を越えて外へ出て行った。物見遊山だったのか、何か探すものがあったのか——今となっては、誰も正しい理由を知らない」
「その人たちは、どうなったんですか」
モーガスは、茶碗を両手で包んだまま、視線を窓の外へ向けた。炉端で、乾いた薬草の束が小さく音を立てていた。
「戻ってこなかった。それだけだ」
「捜しには、行かなかったんですか」
「行ったって話も、行かなかったって話も、どっちもある。俺が知ってるのは、ある日、あの三人が村からいなくなって、それから二度と姿を見なかったってことだけだ」
その言い方には、これまで聞いた「境の外は禁忌」という抽象的な言い伝えとは、まるで違う重さがあった。名前も、顔も、はっきりとした人間が確かに、この村から消えたという事実。
「その三人の、名前は」
モーガスは、しばらく目を閉じた。皺の中に、小さな影が差した。
「……忘れたな」
「忘れた?」
「本当に忘れたんだ。あの子たちの名前は、今じゃもう誰も覚えてないよ。俺の代でも、もうちゃんと覚えてる奴はいないだろうな」
その言葉が、妙に重く胸に落ちた。誰かが確かに生きて、村で育って、そして消えた。それだけの重さを持つ出来事のはずなのに、名前だけが、きれいに村の記憶から抜け落ちている。
「なぜ名前まで忘れられたんでしょう」
「さあな。ただ、覚えていようとする者がいなかったんだろう。誰も、その話を続けようとしなかった」
「モーガスさんは、その三人と、会ったことがあるんですか」
モーガスは、少しの間答えなかった。皺だらけの手の中で、茶碗が小さく揺れた。
「……会ったこと、ぐらいはある。この村は狭い。誰かと一度も会わずに育つなんて、無理な話だ」
「どんな人たちでしたか」
「よく笑う連中だったよ。そう、笑ってた記憶だけが、なぜかはっきり残ってる。名前の方は、綺麗に抜け落ちてるのにな」
モーガスは、そう言って、自分の額を指先で軽く叩いた。まるで、そこに何かが引っかかっているのに、取り出せないことを確かめるような手つきだった。
「……ただ」
モーガスが、ふと声を落とした。
「あの後、家族のところに、村の外から何か"見舞いの品"が届いたって話は、聞いた覚えがあるな。誰が寄越したものかは、誰も知らなかったが」
「見舞いの品、ですか」
「そうだ。名前は忘れても、そっちだけは、妙に覚えてるもんだな」
モーガスは、それ以上多くを語らなかった。僕は、茶を飲み終えると礼を言って、戸口に立った。
「爺さん、今日はありがとうございました」
「なに、たまには坊主みたいなのが来るのも、悪くない」
戸を出る間際、モーガスが、ぽつりと言った。
「坊主。あんまり、その話をあちこちで聞き回るなよ」
「……どうしてですか」
「理由はない。ただの、年寄りの忠告だ」
僕は、それに何も返せなかった。ただ、頭を下げて家を出た。
村外れの道を戻る途中、記録所の方角から歩いてくるダンさんに出くわした。向こうも仕事帰りらしく、革の帳面袋を肩に掛けている。
「お、坊主か」
ダンさんが、こちらに気づいて足を止めた。
「こんな時間に、村外れの方まで行ってたのか」
声は、いつもの無愛想さのままだった。だが視線だけが、一瞬、僕の手や顔の上を探るように動いた。あの、記録所で「書き間違いだ」と言った時と同じ、用意された滑らかさだった。
「モーガスさんに、少し村の昔話を聞きに」
「昔話、ね」
ダンさんの口元が、わずかに歪んだ。頬の筋が、一瞬だけ引きつるのが見えた。
その表情を見て、僕はふと気づいた。ダンさんが恐れているのは、隠し事を見破られることそのものではなく——僕が「何かに気づいている」と、誰かに知られることの方なのかもしれない。台帳のずれを暴いたときとは違う、もう一段深い怯えだった。
「じゃあな。俺は、これから記録所に戻る」
ダンさんは、そう言って歩き出そうとした。それから、背を向けたまま、ぽつりと付け加えた。
「……坊主。あんまり、根も葉もないことを、あちこちで聞き回るもんじゃないぞ」
僕は、その場に立ち止まった。数刻前、モーガスの家の戸口で聞いた言葉が、耳の奥で重なった。
坊主。あんまり、その話をあちこちで聞き回るなよ。
モーガスと、ダンさん。二人に接点があるとは思えない。それでも、同じ言葉で、同じように僕を止めようとした。示し合わせたはずはない。それでも——
僕は、ダンさんの背中が記録所の方へ遠ざかるのを、しばらく見送っていた。
夕暮れの道を歩きながら、僕は、モーガスの言葉を何度も、頭の中で繰り返した。名前のない、消えた三人の若者。
境の外に出た者が、二度と語られないという禁忌——それは、これまで単なる古い言い伝えだと思っていた。だが今、それが具体的な誰かの上に起きた、本物の出来事だったのだと知った。
道の先、境の柵の輪郭が、夕焼けの中に黒く浮かんでいた。あの柵の向こうへ出て、笑いながら二度と戻らなかった三人。彼らにも、名前があって、家族があって、誰かに惜しまれていたはずだ。それが今、こんなふうに、綺麗に忘れ去られている。
同じことが、もし——両親の身にも起きていたとしたら。そして、モーガスだけでなく、ダンさんまで同じ言葉で釘を刺すのだとしたら——村の人間そのものが、何かに従わされているのかもしれない。
その考えに行き着いた瞬間、背筋を冷たいものが伝った。僕は思わず、足を止めた。
モーガスも、ダンさんも、口では"忠告"と言った。それでも——僕を本当に止めようとしているのは、この二人だけなのだろうか。
村に、まだ知らない過去がありました。




