「いつか話す」――それ以上は聞かなかった
根菜の葉についた土を、指先で払い落とす。朝露に湿った匂いが、いつもより強く鼻に残った。
セルマは、朝からずっと部屋にこもったままだった。声をかけても、返事は短い。竈の火も、今朝はまだ入っていない。僕は、それ以上無理に踏み込むことができなかった。代わりに、畑の手入れをすることにした。手を動かしていれば、少しは頭の中の重さが紛れる気がした。
「おはよう」
籠を抱えたリゼが、垣根の向こうから、こちらを覗いた。
「おはよう。今日は、早いね」
「うちの分、多めに採れたから。おすそ分け」
リゼはそう言って、いくつかの野菜を僕の籠に足した。それから、しばらく隣にしゃがみ込んで、一緒に土をいじっていた。何も聞かず、ただそこにいる。それが、今の僕には何よりありがたかった。
思えば、リゼはいつもこうだった。何かが初めて体の奥で灯った日も、村長さんの隠し帳簿を見つけた日も、彼女は驚きはしても、決して僕を疑わなかった。他の誰かなら、変わり者扱いで済ませていたかもしれないことを、リゼだけはいつもそのまま受け止めてくれた。今、目の前で黙々と土をいじっている彼女の横顔を見ながら、僕はそのことに改めて気づかされていた。
「昨日より、顔色少しいいね」
「……そう?」
「うん。まだ話せない?」
「まだちょっと」
リゼは、小さく頷いた。無理に聞き出そうとする気配は、まるでなかった。ただ、隣に静かに居続けている。
僕は、しばらく黙って、土の中の石を拾い続けた。だが、頭の中では、昨日のセルマの表情が何度も繰り返されていた。
「セルマ、今日も、まだ様子がおかしくて」
言うつもりのなかった言葉が、思わず、口からこぼれた。
「大丈夫?」
「分からない。父さんと母さんのこと、少し調べてただけなのに……あんな怖がり方、初めて見た」
リゼの手が、一瞬、土の中で止まった。
「……そう」
その声の色が、少しだけいつもと違った。僕は、顔を上げてリゼを見た。
垣根の外から、軽い足音が近づいてきた。カイルだった。
「おい、二人して何やってんだ。畑仕事なら、俺も混ぜろよ」
「別にいいけど、カイルは自衛団の見回りがあるんじゃないの」
「今日はまだ時間がある。……お前、なんか顔色悪いな、ノア」
「そう見える?」
「見える。ま、深くは聞かないけどな」
カイルは、それだけ言うと、軽く手を振って、また村の方へ歩いていった。悪気のない、いつも通りのカイルだった。踏み込まない優しさと、踏み込めない鈍さは、時々紙一重に見える。だが、今日は、その距離感がちょうどよかった。
カイルの足音が遠ざかると、僕はもう一度、リゼの方を見た。
「リゼ?」
「あ、ううん。何でもない」
リゼは、すぐに、いつもの笑顔を作り直した。だが、その作り方が、ほんの少しだけ遅かった。表情が笑みに変わるまでの、わずかな間——そこに、何か、迷いのようなものが挟まっていた気がした。
だが、今、目の前にあるリゼの表情のずれは、これまで見てきたどの表情とも違っていた。誤魔化しでも、嘘でもない。ただ、言葉にする前の、ほんの小さな迷いだった。
「リゼも、何か、抱えてる?」
聞くつもりはなかった。だが、口をついて出てしまった。
リゼは、しばらく黒い土を見つめたまま、何も答えなかった。それから、小さく息を吸った。
「……うちにも、昔」
その先を、リゼは続けなかった。
「昔?」
「……ううん。今はいい」
そう言って、リゼはまた土に視線を落とした。今度は、はっきりと話を切ったのが分かった。
僕は、それ以上聞かなかった。聞いてはいけない、というより——聞いても、まだ答えが返ってこないことが、分かってしまったからだった。
これまで、リゼはいつも、僕の側にいた。僕が抱えている違和感を、笑わずに受け止めてくれる、唯一の相手だった。だが、今初めて気づいた。リゼの方にも、まだ言葉にできない何かがあるのかもしれない、ということに。
彼女はずっと、明るい笑顔の裏で、何かを飲み込み続けていたのだろうか——僕がそうしてきたのと、同じように。
「ごめん、変なこと聞いた」
「ううん。……いつかちゃんと話す。今は、まだ」
リゼは、そう言って、またいつもの笑い方に戻った。だが、その笑顔の下に、初めて見る何かがあることを、僕は、もう見過ごせなくなっていた。
「分かった。待つよ」
「うん」
その後、僕らは、しばらく何も言わずに畑仕事を続けた。土をいじる手の動きだけが、二人の間の沈黙を埋めていた。
籠がいっぱいになったところで、リゼは、腰を上げた。
「じゃあ、また」
「ありがとう、野菜」
リゼは、小さく手を振って、垣根の向こうへ戻っていった。その背中を見送りながら、僕はしばらく、その場に立ち尽くしていた。
いつも通りの、明るいリゼ。だが、今日初めて、その明るさの奥に小さな影を見た気がした。
これまで、僕は自分だけが、違和感を抱えて生きてきたのだと、どこかで思っていた。父さんと母さんのこと、セルマの恐怖、境の外の視線——自分の周りに起きていることだけを追いかけていた。
だが、もし、リゼにも似たような何かがあるのだとしたら。この村に、僕の知らない小さな秘密が、まだいくつも埋まっているのだとしたら。
僕は、籠を抱え直し、家へ戻る道を歩き始めた。歩きながら、何度もリゼの「うちにも、昔」という言葉を頭の中で繰り返した。
「昔」——その一言だけで、彼女が何を言おうとしていたのか、見当をつけることはできなかった。だが、その言葉の切り方には確かに、覚えがあった。セルマが、僕の質問を遮ったときの切り方とよく似ていた。
もしかしたら、この村では、誰の家にもこうして切り落とされたままの言葉が、いくつも眠っているのかもしれない。
家の前まで来たところで、僕は一度、足を止めた。夕方の光が、屋根の向こうに差し込んでいる。セルマは、まだ部屋にいるだろうか。
僕は、深く息を吸って、扉に手をかけた。今すぐ答えが出るわけではない。それでも、今日、リゼの中に見た、あの一瞬の迷いだけは確かに、この胸に残っていた。
扉の向こうから、かすかな物音がした。セルマが、ようやく部屋を出たのかもしれない。僕は、しばらくその音に耳を澄ませた。台所の方から、鍋を動かす控えめな音が聞こえてくる。昨夜よりは、いくらか日常に近い音だった。
それでも、あの怯えた顔が完全に消えたわけではないだろう。セルマの中にあるものと、リゼの中にあるもの——二つは、まったく別の出来事のはずだ。それでも、どちらも、この村の誰かが長い間、言葉にしないまま抱えてきた何かなのだと思うと、この村そのものが、僕の知らない小さな空白をいくつも隠し持っているように感じられた。
いつか、リゼが自分から話してくれる日が来るまで、僕は待つと決めた——彼女が、これまでずっと僕の話を待ってくれていたのと、同じように。今はまだ、その順番が来ていないだけだ。そう思うことで、ようやく、僕は扉を開ける決心がついた。
リゼにも、まだ話せないことがあるようです。




