「あの子たちは」――そこで祖母は口を閉じた
家に入った瞬間、いつもと違う匂いが、鼻をくすぐった。
甘く、少し酸味のある香り——葡萄酒だ。
セルマが、竈の前ではなく、机の方に座っていた。先日の収穫祝いで配られた小瓶を、戸棚の奥にずっとしまっておいたはずだった。
「おや、帰ったの」
声が、いつもより少しだけ緩んでいた。
「うん。……セルマ、それ」
「ああ、これ? たまにはいいだろう。今日はなんだか昔のことを思い出す日だったから」
セルマは、小さな杯をこちらに向けて軽く掲げた。頬が、うっすらと赤い。
僕は、荷物を隅に置いて対面の椅子に座った。竈の残り火が、部屋の中をぼんやりと温めている。
「昔のこと、って?」
「そう聞かれると、いろいろあるけどね。……そうだ、お前の母さんの話でも、しようか」
その一言に、僕は思わず姿勢を正した。今まで、こちらから聞いてもはぐらかされてばかりだった話が、今夜は向こうから開かれようとしている。
「うん。聞きたい」
「あの子は、縫い物をするとき、いつも同じ調子外れの歌を口ずさんでいたんだよ。教えてもいないのに、どこで覚えたのか、ずっと同じ歌。下手なくせに楽しそうに歌うから、こっちまでつい笑ってしまってね」
セルマは、そう言って、本当に少し笑った。長い間見たことのなかった、柔らかい表情だった。
「父さんは?」
「あの人は、寡黙だったけど、手先が器用でね。お前が小さい頃、木の鳥を彫っていくつも作ってくれたんだよ。飛ぶ真似をさせて、お前を笑わせてた。……ああ、そういえば、あの木の鳥、どこにやったんだったか」
セルマの視線が、一瞬遠くを見るように天井の方へ動いた。
「僕覚えてないな。そんな小さい頃のことは」
「そうだろうね。お前がまだ三つになる前の話だから」
「二人は、どうやって知り合ったの」
「それは……ちょっとした偶然だったと聞いてるよ。母さんが、隣の集落から嫁いできたときに、道を教えたのが父さんだった、とかね。何度も同じ話をせがまれて、面倒くさそうにしながらも、嬉しそうに話してくれたもんさ」
セルマは、そこまで話すと杯を軽く回した。中の酒が、行灯の光を受けて揺れる。
「二人揃うと、よく笑ってた。特に理由もなく、二人だけで通じるような小さな笑い。傍から見てると、こっちまでつい嬉しくなるような、そういう笑い方だったよ」
その光景が、僕の中には、まったく残っていない。なのに、セルマの言葉を通して聞くと、まるで自分がその場にいたかのような、奇妙な温かさが胸に広がった。
「僕は、そんなふうに笑えてるかな。父さんたちみたいに」
「さあね。お前は、あの二人よりも、ずっと難しい顔をしてることが多いよ。でも、リゼと話してるときは少し似てる気がすることもある」
セルマは、そう言って、また静かに笑った。その笑みが、僕には、いつもより少しだけ寂しそうに見えた。
杯を口元に運ぶセルマの手が、少し緩やかになっていた。僕は、その様子を見ながら、これまでずっと避けていた問いを、今夜こそ口にしてみようと決めた。
「セルマ。二人は……どうして亡くなったの」
その言葉を出した瞬間、部屋の空気がわずかに変わった気がした。
セルマの手が、杯の縁で止まった。
「あの子たちは……」
言葉が、そこでふっと途切れた。
杯を置く手が、微かに震えていた。目は、僕の方を見ていないまま、竈の残り火の方をじっと見つめて動かなかった。
「セルマ?」
「……もう休む時間だね。今日はちょっと喋りすぎた」
セルマは、そう言うと、杯を持ったままゆっくりと椅子から立ち上がった。足取りは、いつもより少しだけ重く見えた。
「セルマ、待って。あの子たち、って——」
「明日も、井戸の水汲みがあるだろう。早く休みなさい」
それだけ言って、セルマは寝室の方へ向かった。戸口の前で一度だけ、こちらを振り返る。その顔には、さっきまでの柔らかさはもう残っていなかった。何かを堪えるような、硬い表情だった。
戸が、静かに閉まった。
僕は、しばらく、その戸を見つめたまま、動けなかった。
さっきまでの、あの柔らかい笑い声が、まだ耳の奥に残っている。母さんの調子外れの歌、父さんの彫った木の鳥、二人だけで通じ合っていたという笑い方——どれも、僕自身は一度も見たことのない光景なのに、セルマの言葉のおかげで輪郭だけは確かに感じ取れた気がした。だからこそ、その直後の切れ目が余計に重く胸に残る。
——あの子たちは。
たったひと言にも満たない、その言葉の切れ目に何が隠れているのか。セルマは今、確かに何かを語りかけようとして、自分でそれを止めた。
村長さんの帳簿を暴いたときも、無ノ子の記録を追ったときも、相手が言葉を止めた瞬間には必ず何か理由があった。今夜のセルマも、同じだった。ただ、いつもとまるで違うのは——今回、僕が向き合っているのは、村の誰かの秘密ではなく、自分自身の一番近くにある秘密だということだった。
これまでは、誰かの言葉が止まるたびに、それをただの手がかりとして冷静に扱えた。だが今は、胸の奥が妙にざわついて、うまく整理がつかない。セルマが怖がっているのか、それとも僕を守ろうとしているのか——その両方な気もするし、どちらでもない気もする。分からないことが、こんなに気持ちを揺らすのは久しぶりだった。
杯には、まだ葡萄酒が少し残っていた。僕は、それをそのまま流しに運びながら、考えていた。
セルマに、これ以上聞いても、今夜のようにはぐらかされるだけかもしれない。だとしたら、別の場所で、確かめるしかない。
村には、生まれた者、死んだ者を書き記す記録がある。父さんと母さんの死も、必ずどこかに記されているはずだ。埋葬の日付、その理由。セルマの口からではなく、記録そのものから確かめてみよう。
墓地の隅に、小さな記録所があることは前から知っていた。宿屋の名前のない客の件を調べたとき、あの近くを通りかかったのを覚えている。管理をしている老人は無愛想だが、筋の通った頼み方をすれば話を聞いてくれるはずだ。
杯を洗う水の冷たさが、指先にじんわりと染み込んでくる。僕は、その冷たさを感じながら静かに決めた。
明日、村の記録所へ行く。今度こそ、自分の目で、確かめる。
行灯の火を落とす前、僕は、机の上に残った空の杯をもう一度見た。二人分のはずの笑い声が、今、この家には一人分しか響いていない。その静けさに、僕は少しだけ耐えられなくなっていた。
セルマの言葉が、初めて少しだけ開いた回でした。次回、記録を確かめに行きます。




