祖母の返事が、いつもと違って聞こえた
数日が経つと、詰所の熱気もいくらか落ち着いた。祭りの後の村は、いつも、こんな静かな余韻をまとう。カイルの話題も、村人たちの口から少しずつ減っていき、日常の音だけがまた戻ってきていた。
「よう、久しぶり」
カイルが、いつも通りの調子で井戸端に顔を出した。腕章はもう外していて、ただの普段着のカイルだった。
「久しぶりって、三日ぶりだよ」
「自衛団、意外と忙しくてさ。今日は、非番なんだ」
カイルはそう言って、井戸の縁に、どさっと腰を下ろした。
「見張り、どうだった。北の方、行ったの?」
「まだだ。まずは、村の中の見回りから。地味な仕事だけど、性に合ってるかもしれない」
「そうなんだ」
「なんか拍子抜けした顔してるな」
「そんなことないよ」
「まあいいや。それより、リゼは?」
「トビンのところ。畑の手伝いだって」
「トビンも、最近、いい感じだよな。前より、よく笑うようになった」
カイルはそう言って、空を見上げた。以前と変わらない、明るい横顔だった。雲がゆっくりと流れていくのを、二人でしばらく黙って眺めていた。
「なあ、ノア」
「うん?」
「前に言った"違う側"のこと、俺まだ気にしてるかもって、思ったんだけど」
その言葉に、僕は少し驚いた。
「気にしてるよ、確かに。だけど――」
僕は少し考えて、言葉を選んだ。
「立つ場所が違っても、隣にいてくれるなら、それで十分だと思う。今は、そう思ってる」
カイルはそれを聞いて、少しだけ目を細めた。
「お前、そういうこと、素直に言うようになったよな。前は、もっとぐるぐる考えて、飲み込んでた気がする」
「そうかな」
「そうだよ。俺の力が、目に見えるものだとしたら、お前のそれは目に見えないものをちゃんと言葉にできるようになってきた、って感じだ」
カイルはそう言って、井戸の水を桶に一杯汲み上げた。水面に映る自分の顔を、少しの間じっと見ていた。
「実はな。俺、儀式の日にお前が一瞬変な顔してたの覚えてる」
その一言に、僕は内心少し驚いた。
「見てたんだ」
「見てた。祝いの声に紛れて、一瞬だけだったけど。何か、気になったんじゃないか」
「……うん。ちょっとだけ」
「話す気になったら、聞くから。今すぐじゃなくていい」
カイルはそれ以上、深く踏み込もうとはしなかった。ただ、その気遣いの分だけ、彼が確かに変わり始めているのだと僕は感じた。
「じゃ、俺、帰るわ。母さんが、夕飯までに戻れって」
「うん。また明日」
「おう」
カイルは桶を担いで、いつもの足取りで家路についた。その背中を見送りながら、僕は少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。
寂しさは、まだ完全には消えていない。それでも、カイルとの間にある腐れ縁のようなものは、確かにそのまま続いている。それだけは今確かに感じられた。
家に帰ると、セルマが竈の前で夕飯の支度をしていた。鍋から、豆の煮える匂いが部屋いっぱいに広がっている。
「おかえり。今日は、遅かったね」
「カイルと、少し話してた」
「あの子、元気にしてる?」
「うん。自衛団の仕事、性に合ってるみたい」
セルマは、それを聞いて小さく笑った。
「良かったね。あの子らしい」
僕はその様子を見ながら、ふと、口にしてみたくなった。今日、カイルが見せた小さな気遣いが、胸の奥に残ったままだったからかもしれない。
「セルマ」
「なに」
「僕の……父さんと、母さんは、どんな人だったんだろう」
セルマの手が、一瞬止まった。竈の火が、その顔に揺れる影を落としている。
「……昔の話だよ」
「うん。分かってる。でも、最近いろいろ考えることが増えて。カイルは、これから村の中ではっきりした場所を持っていく。僕は……たぶん、違う場所に向かってる。その"違う場所"がどこから来たものなのか、少し知りたくなったんだ」
セルマはしばらく何も言わなかった。竈の火が爆ぜる音だけが、静かに部屋に響いた。木の匙で鍋をかき混ぜる手が、いつもより少しだけ遅かった。
「……今は、まだ話せることが少ないんだよ」
その言い方には、拒絶というよりも、何かを必死に押し留めているような響きがあった。
「セルマ?」
「夕飯にしよう。今日は、豆の煮込みだよ。好きだろう」
セルマはそう言って、話を切り上げるように鍋をかき混ぜ始めた。その背中は、いつもより少しだけ固く見えた。
僕はそれ以上、何も聞かなかった。だが、今の一言――「まだ話せることが少ない」という言葉が、これまでの、あいまいな「昔の話だよ」という返事とは明らかに違う響きを持っていることに気づいてしまった。
夜、床に入ってからも、僕は今日一日を何度も振り返っていた。
カイルとの間にある溝は、確かに、これから少しずつ広がっていくのだろう。それでも、その溝の底に変わらない何かがあることも、今日、はっきりと感じられた。木剣の音、桶を担ぐ背中、そして、あの何気ない気遣い――カイルは、儀式を経ても、カイルのままだった。
そして――セルマの、あの一瞬の言葉。
「まだ話せることが少ない」
それは、これまで避けてきた両親の話に、初めて開いた、ほんの小さな隙間だった。
僕は、その隙間の先に何があるのか、まだ知らない。だが、いつかそれを知る日が来る――そんな予感だけが、静かに胸の奥に残っていた。窓の外で、夜風が木々の葉を静かに揺らしていた。
カイルとの間にできた距離、セルマの一瞬の言葉、そして、ずっと胸の底に抱えてきた「なぜ、僕だけがこうなのか」という問い。これまで、その問いを村の矛盾を暴くための道具としてしか使っていなかった気がする。だが、今夜はそれが、自分自身の出自に向かう問いでもあることに初めて正面から気づいた。
いつか境の外に出る。いつか村の仕組みの全部を知る。その目標は、今も、僕の中で変わらずに立っている。だが、その先に両親のことも含まれているのだと分かった今、その目標は、少しだけ輪郭を変えたように感じた。
眠りに落ちる直前、僕はもう一度、セルマの言葉を思い出した。
「まだ話せることが少ないんだよ」
――少ない、ということは、いつかは話せる日が来るということだ。その日を、僕は静かに待つことにした。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。次の章から、両親のことに触れていきます。




