誇らしい言葉のはずが、頷けなかった
自衛団の詰所から漏れる笑い声が、通りの向こうまで届いていた。
儀式の日から数日、村の空気は、まだカイルの話題で温かかった。井戸端でも、市場でも、誰かがふと「あの子、もう見張りに立ってるんだって」と口にする。その度に、僕は少しだけ返す言葉を選ぶのに時間がかかった。
「聞いてくれよ、ノア! 今日、隊長に言われたことがあってさ」
カイルが、詰所の入り口から飛び出してきた。まだ真新しい、自衛団の腕章を巻いた腕を誇らしげに振っている。周りには同じく入団したばかりの同期が数人、まだ興奮の残る顔で立ち話をしていた。
「何、言われたの」
「『疑わず、決められたことをきっちりやれる奴が、一番強い』って。俺、真っ先にそう言われたんだ」
カイルは、それを心から誇らしいことのように語った。
「隊長が、そう言ったんだ?」
「うん。俺、それを聞いて、なんかすごく腹の底が熱くなった。ようやく、村の一員として認められた気がして」
その言葉を聞きながら、僕はうまく相槌を返せなかった。
カイルの喜びは、本物だった。それは疑いようもなかった。だが――その喜びの根っこに、村の"疑わない"という価値観が、まるで水が染み込むように、すっと入り込んでいることに、僕は気づいてしまった。
「その言葉、変だと思わなかった?」
思わず、口にしてしまった。
カイルは、一瞬きょとんとした顔をした。
「変? 別に、普通のことだと思うけど」
「決められたことを、疑わずにやるのが一番強いって……それ、本当にそうなのかな」
「そりゃ、そうだろ。上の指示にいちいち疑問持ってたら、動きが遅れる。戦うときは、それが命取りになる」
カイルの答えには、迷いがなかった。それは間違ってはいない。実戦の場では、確かに疑いが動きを鈍らせることもあるだろう。
だが、僕が引っかかったのは、そういう話ではなかった。
「うん、それは分かる。ただ……」
「ただ?」
僕は言葉を続けようとして、途中で止めた。今、ここで村の"疑わない"価値観そのものに疑問を投げかけても、カイルには伝わらない気がした。彼は悪意なく、心の底からその言葉を誇りに思っているのだから。
「ううん、何でもない。おめでとう、腕章」
「だろ? かっこいいだろ、これ」
カイルは、腕章を見せつけるように腕を掲げた。その笑顔には、一片の疑いもなかった。周りの同期たちも同じように隊長の言葉を疑いなく胸に刻んでいるのだろう。誰もが、その言葉を誇りの証として身にまとっていた。
僕は、その眩しさを、まっすぐに見つめることができなかった。
夕方、水汲みの帰り道で、リゼと並んで歩いた。井戸端の喧騒も、少しずつ静かになっていく時間だった。
「カイル、すごく嬉しそうだったね」
「うん」
「ノア、何か、浮かない顔してる」
「そう見える?」
「見える。今日だけじゃなくて、ここ数日、ずっと」
僕はしばらく黙って、道の先を見つめた。夕暮れの光が、道端の草むらを橙色に染めていた。
「カイルが、羨ましいわけじゃないんだ」
「うん、分かってる」
「でも……なんて言えばいいのかな。カイルが、村の中にどんどん綺麗に収まっていくのを見てると、僕だけが少しずつ遠くに置いていかれてるような気がして」
その言葉を、初めて誰かに向けて口にした。
リゼは、それを聞いてすぐには答えなかった。しばらく歩いた後で、静かに言った。
「置いていかれてるんじゃなくて……見てる方向が、違ってきてるだけなんだと思う」
「見てる方向?」
「カイルは、村の中をまっすぐ見てる。ノアは、その外側とか、村の仕組みそのものを見ようとしてる。二人とも前に進んでるんだよ。ただ、向いてる先が違うだけ」
その言い方は、カイルの言った「違う側」よりも、少しだけ優しく聞こえた。
「それって、いつかまた同じ方向を向くこと、あるのかな」
「分からない。でも……ノアが見てるものを、いつかわたしも一緒に見たいと思ってる。それは今も変わらないよ」
リゼの言葉に、僕は少しだけ、胸の奥が軽くなるのを感じた。
「トビンも、きっとそう思ってると思う。あの子も、村の"当たり前"から、少しはみ出したところにいるから」
「そうかもしれない」
「三人で見てる方向が、いつかまた揃う日が来るといいね」
寂しさは消えなかった。カイルの眩しさの中に、自分の場所がないという感覚も、まだそのままそこにあった。
けれど、その寂しさの隣に、確かにリゼという存在があることも、同じくらいはっきりと分かった。
夜、家の窓から、詰所の方の灯りが見えた。今日、正式に自衛団へ入団した若者たちを労う、小さな宴が開かれているのだろう。笑い声が、風に乗って、かすかに届いてくる。時折、誰かが歌う調子外れの歌声も混じって聞こえた。
僕は、その灯りをしばらく見つめていた。
これは、嫉妬じゃない。カイルが手にしたものを、奪いたいとは思わない。
ただ、今まで同じ場所に立っていたはずの友人が、確かに少しずつ違う場所へ歩いていっているという実感――それだけが静かに胸の中に残り続けていた。
灯りは、しばらくの間消えなかった。僕は、その明るさが完全に沈むまで窓辺に立ち続けていた。
床に入る前、僕は例の覚え書きを取り出し、今日の分の一行を書き足した。カイルの誇らしさの根っこにあった、村の"疑わない"価値観のことを。紋様の形を数えるのと同じように、この感情の動きも、いつか意味を持つ記録になるかもしれないと思ったからだ。
翌朝、井戸端でトビンに会った。相変わらず、鍛冶場の仕事帰りらしく、腕にわずかな煤をつけている。
「カイル、自衛団に入ったんだってね」
「うん。すごく、嬉しそうだった」
「羨ましい?」
不意にそう聞かれて、僕は少し考えた。
「羨ましいとは、違う気がする。ただ、あんなに迷いなく喜べる場所が、僕には、まだ見えてないんだと思う」
トビンは、それを聞いて小さく頷いた。
「僕も、似たようなこと考えてた。無ノ子って呼ばれてから、村の中に自分の場所がないような気がしてて。でも……ノアも、リゼも、そばにいてくれるから、それだけで少し違う」
その言葉に、僕は少しだけ救われた気がした。カイルの眩しさとは違う場所に、僕とトビンとリゼが立っている――それも悪いことではないのかもしれない。そんな気がした。
井戸の水面に、朝の光が細かく揺れて反射していた。その光を眺めながら、僕はふと思った。カイルの眩しさも、この水面の光も、同じ朝の光を受けているはずなのに、見え方はまるで違う。眩しさの種類が違うだけで、どちらも確かにそこにある光なのだと。
次に誰かが儀式を受ける日が来たら、紋様の角の数と折れ方を、今度はもっと近くで確かめてみよう。そう、僕は静かに決めた。
眩しさと寂しさが、同時に来る回でした。




