「そろそろ違う側だな」と友が言った
木剣が空を打つ音が、朝の稽古場に短く響いた。
まだ日が高く昇らない時間だったが、稽古場にはすでに人の熱気があった。土埃と汗の匂いが混じり合う中、自衛団の見習いたちが代わる代わる木剣を振っている。その中でも、ひときわ声を張っているのがカイルだった。
「もう一本、お願いします!」
息を切らしながらも、カイルの声は弾んでいた。指導役の自衛団員が苦笑しながら頷くと、カイルはすぐに構えを取り直す。振り下ろす動きに、迷いがない。
僕は稽古場の隅の切り株に腰かけて、その様子を眺めていた。
「今日で、何本目?」
隣に座ったリゼが、呆れたように聞く。
「数えるの、途中でやめた」
「体、壊すよ」
「壊れる前に、儀式が来る」
カイルはそう言い切って、また木剣を構えた。あと数日で、十五歳の誕生日を迎える。目覚めの儀の日取りは、もう村中に知れ渡っていた。井戸端でも、市場でも、話題の半分はカイルの誕生日のことだった。
打ち込みの音が、また響く。額に浮いた汗が、朝の光を弾いて散った。
稽古が終わると、カイルは息も絶え絶えのまま、僕たちの方へ歩いてきた。木剣を地面に突き、その柄に両手を乗せて大きく息を吐く。
「見てたか、今の」
「うん。前より、速くなってる」
「だろ? 自衛団の連中に、少しでも近づいときたくてさ」
カイルは汗を袖で拭いながら、満足そうに笑った。
「入団したら、俺、北の見張りに回されるかもって聞いた。境の柵の近くだ」
「柵の……近く?」
「ああ。あそこ、いろいろ物騒だって話もあるけど、俺は行ってみたい。ノアが前に言ってた、柵の外がどうなってるのか、俺も見てみたいしな」
その言葉に、僕は少し驚いた。カイルが柵の外の話を持ち出すのは、珍しかった。
「見てみたいって、思ったことあるんだ」
「そりゃ、あるだろ。ただ――」
カイルはそこで、木剣の柄を指先でとんとんと叩いた。
「俺の"見てみたい"と、お前の"見てみたい"は多分違うもんだと思うけどな」
「違う?」
「俺は、自衛団に入って村を守るために外を見たい。でも、お前は……多分それだけじゃないだろ」
その言葉に、僕は思わず口を閉じた。図星だった。
リゼが二人の間の空気を察したのか、少し声を和らげて言った。
「二人とも、目指してる場所が似てるけど、少しだけ違うってことだよね」
「まあ、そういうこと」
カイルはあっさりそう言うと、木剣を担ぎ直した。
「でもさ、ノア」
「うん」
「俺と、お前――そろそろ、"違う側"になるのかもな」
冗談めかした声だったが、その響きの奥に、僕は確かな本音が滲んでいるのを感じた。
「違う側、って?」
「儀式が終わったら、俺は村の"守る側"の人間になる。自衛団の一員として、村の当たり前を守ることになるんだ。お前は……まだそっちには入れない」
「僕は、入れないんじゃなくて――」
「分かってる。お前が入りたがってないのも、分かってる」
カイルはそう言って、少しだけ表情を緩めた。
「別に、悪い意味で言ったわけじゃないぞ。ただ、これから先、俺とお前が立つ場所が少しずつずれていくんだろうなって、そんな気がしただけだ」
その言葉が、思っていたよりも重く僕の中に沈んだ。
僕たちはこれまで、同じ場所に立って同じものを見てきたはずだった。だが、儀式という一つの節目を境に、カイルは「村の中で疑わず、守る側」へ進み、僕はいまだにその外側に立ち続けている。
そこへ、稽古場の入り口からダレンが顔を出した。片方の腕には、まだ薄い包帯の跡が残っている。
「相変わらず、うるさいな、お前は」
「ダレン! お前も見てただろ、今の連続打ち」
「見てた。悪くない」
ダレンはそう言うと、僕の方にも視線を寄越した。
「ノア、そんな顔してどうした」
「別に、何でもないよ」
「まあ、いい。カイル、儀式が終わったら、俺の隣で見回りに立つことになるかもしれんぞ。名主の息子として少しは口を利いておいた」
「本当か! 助かる」
カイルが嬉しそうに声を上げる。ダレンはその反応に、少しだけ肩をすくめた。
「俺も、昔は疑わないことに何の疑いも持ってなかった。今は少し違う。カイル、お前もいつかそうなる日が来るかもしれんぞ」
その言葉は、カイルに向けたものだったが、僕の耳には別の重さで届いた。ダレンは自分の変化を通してカイルにも同じ変化が訪れる可能性を静かに示していたのかもしれない。
「まあ、でも」
カイルは木剣を肩に担ぎ直しながら、いつもの調子で笑った。
「立つ場所が違っても、腐れ縁は腐れ縁だろ。お前が変な違和感抱えてるのも、今更やめろとは言わないし」
「うん」
「それに――お前の"疑う"目、俺は結構頼りにしてる。ダレンだって、そうだろ」
「それは、認める」
ダレンが素直にそう頷いた。その一言に、少しだけ肩の力が抜けた。
「ありがとう」
「礼礼言うことじゃないだろ。それより、今日の稽古、もう一本付き合え」
カイルはそう言って、また木剣を構え直した。振り下ろす姿には、迷いも揺らぎもなかった。
僕はその後ろ姿を見つめながら、今の言葉を何度も心の中で繰り返していた。
――そろそろ、違う側になるのかもな。
冗談のつもりで放たれた一言が、これほど正確に、二人の間にある溝の形を言い当てているとは、カイル自身、気づいていないのかもしれない。
「ノア」
リゼが隣で、静かに僕を見ていた。
「大丈夫? 今、何か考え込んでたよね」
「うん……ちょっとだけ」
「カイルの言葉、気にしてる?」
「気にしてる、っていうより……」
僕は少し考えて、言葉を選んだ。
「今まで、なんとなく同じ場所に立ってるつもりだった。けど、そうじゃなくなる日がもうすぐ来るんだなって初めてはっきり分かった気がする」
リゼはそれを聞いて、小さく頷いた。
「でも、それって悪いことじゃないと思うよ」
「うん」
「立つ場所が違っても、見てる先が違っても……ノアとカイルが腐れ縁でいることは、変わらないと思うから」
その言葉に、僕は少しだけ救われた気がした。
夕方、稽古場の熱気もすっかり収まった頃、僕は一人で切り株に、しばらく座っていた。カイルが振り続けていた木剣の音が、まだ耳の奥に残っている。
これまで、僕とカイルの間には、疑うか疑わないか、という違いはあっても隣に立つ場所そのものは変わらないと思っていた。だが、今日の一言でその前提が静かに崩れていくのを感じた。
儀式が終わったとき、カイルはどんな顔をして僕の前に立つのだろう。夕焼けが稽古場の土を、いつもより赤く染めていた。
その答えは、もう数日後にやってくる――それが、どんな答えであっても。
カイルの誕生日が、いよいよ近づいてきました。




