隊が去った朝、一枚の布を受け取る
「ノア、井戸の水、運んでおくれ」
祖母セルマの声で、僕は朝の身支度から手を止めた。
「うん、すぐやる」
桶を手に外へ出ると、広場は、いつもより静かだった。隊商の荷馬車が並んでいた場所には、車輪の跡と、踏み固められた土だけが残っている。昨日まであれほど賑やかだった場所が、一晩でこんなにあっさり元の広場に戻ってしまうのかと、僕は少し不思議な気持ちで眺めていた。露店の骨組みを解体する男たちの声、それを運び去る荷車の軋み――日常が音を立てて戻ってきているようだった。
家に戻ると、セルマが竈の前で手を止め、広場の方をちらりと見た。
「寂しくなったね、村が」
「あれだけ大勢来ていたのに、去るときは、ずいぶん静かなものだ。……昔もそうだったよ。にぎやかだった分だけ、いなくなった後の静けさが余計に重く感じるものさ」
その言い方に、僕はふと引っかかりを覚えたが、セルマはすぐに竈へ視線を戻し、それ以上は何も言わなかった。僕は桶を手に、井戸へ向かった。
途中、宿屋の前を通りかかると、主人が僕を呼び止めた。
「ノア、ちょうどいいところに。お前に、渡すものがあるんだ」
「僕に、ですか?」
主人は店の奥から、小さく折られた一枚の布を持ってきた。
「今朝、まだ日も昇らないうちに、隊商の若いのが一人こっそり寄っていってな。『これを、隊が見えなくなってから渡してくれ』って頼まれた」
「隊商の……」
「ガイルさんの言いつけだそうだ。名乗りもせずに、すぐ隊の後を追って行ったよ。よほど急いでたんだろうな」
僕は桶を足元に置いて、その布を受け取った。手のひらにすっぽり収まるくらいの、小さな結び目だった。
「ここで開けても?」
「好きにしな。俺は渡しただけだ」
主人はそう言うと、店の中に戻っていった。
僕は井戸端の石段に腰を下ろし、結び目をゆっくりとほどいた。
中には、短い文字が並んでいた。飾りのない、太い線で書かれた文字。旅の途中、何度も書き慣れた手つきなのが、そのまま伝わってくるような字だった。
『坊主へ。
谷を出ても、目だけは死なせるな。
疑うなって言葉は、俺が行った先のどこにでもある。それは、もう分かっただろう。
だが、疑う目を持ったまま、その中を歩けるかどうかは――坊主次第だ。
いつかまた会うことがあったら、聞かせてくれ。お前が何を見てきたか。
――ガイル』
僕はその文字を、何度も読み返した。
(最後に、こんな言葉を……)
目の奥が、じんとにじむように熱くなった。棘のような痛みではなく、もっと静かで確かな熱だった。
思えば、ガイルはあの日、荷馬車の点検に戻っていくときも、最後に一度だけ僕を見て小さく頷いただけだった。あの一瞬の中に、こんな言葉が隠れていたなんて、思いもしなかった。人前での見送りは、あくまであっさりと終わらせて、本当に渡したいものは誰にも見られないところで置いていく――それが、ガイルという人のやり方なのだろう。トビンの帳面を突きつけたときも、村人たちの前で公然と認めたときも、この人は一度も取り繕う様子を見せなかった。その一貫した振る舞いの奥に、この最後の一文が置かれていたのだと思うと、余計に重みが増した。
「――坊主次第、か」
僕はその言葉を口の中で小さく繰り返した。
これまでの僕は、「外を見たい」という気持ちを、どこか漠然とした憧れのままにしてきた気がする。柵の外に何があるのか。ガイルが見てきたものの正体は何なのか。知りたい、という気持ちはあっても、それはまだ「いつか」という遠い場所に置かれたままだった。
でも、この一文を読んだ今、その「いつか」が少しだけ手前に引き寄せられたように感じた。
見たいものは、もう決まっている。知りたいことも、もう決まっている。あとは僕がそこへ、実際に足を運ぶかどうかだけだ。
灯前村と瀬戸口の記録のことも、頭の隅で少し引っかかっていた。あの二件を、村の帳簿に正式に書き残すべきかどうか。今はまだ、その判断をつけられなかった。
「ノア? そこで何してるの」
顔を上げると、リゼが桶を抱えて立っていた。
「あ……ごめん、水汲み、途中で止まってた」
「いいけど。何、それ」
僕は少し迷ってから、布に書かれた文字をリゼに見せた。
リゼはそれを黙って読んで、最後まで読み終えると、小さく息を吐いた。
「……坊主次第、か」
「うん」
「ノアらしいこと、言われたね」
「らしい、って?」
「疑うことをやめない目を持ってるかどうかは自分次第だって。それ、ノアがずっとやってきたことじゃない」
僕は思わず苦笑した。
「そう言われると、そうかもしれない」
「わたしは思うよ」
リゼは井戸の縁に、僕と並んで腰を下ろした。
「ノアが、いつか本当に谷の外に出るんだろうなって。今までは、なんとなくそう思ってただけだった。けど今は……もう、時間の問題な気がする」
「僕も、そう思う」
その一言を、僕は初めて迷いなく口にした。
「見たい。ちゃんと、自分の目で。この谷の外に何があるのか」
言葉にした瞬間、それは単なる憧れではなく、はっきりとした一つの目標に変わった気がした。曖昧な「いつか」に、初めて輪郭がついた――そんな感触だった。
「わたしも、その時が来たら一緒に行きたいな」
リゼはそう言って、少しだけ笑った。
「その時が来たら、ね」
「約束する。一人で行くなんて、考えてないから」
リゼは少し驚いた顔をしてから、井戸の水面に映る自分の顔を見つめた。
「今、そう言ってくれたこと、ちゃんと覚えておくから」
僕たちはしばらく何も言わずに、隊商が去っていった街道の方を見つめていた。井戸端の水面に、朝の光がゆっくりと揺れていた。
そこへ、遠くから聞き覚えのある声が飛んできた。
「おーい、ノア! リゼ!」
カイルが、大きく手を振りながらこちらへ走ってくる。息を切らしながらも、顔中に笑みを浮かべていた。
「二人して、こんな朝から何やってんだ。俺、今日、めちゃくちゃ重要な話があるんだけど!」
いつも通りの明るい声だった。僕は布をそっと懐にしまい、立ち上がった。
「重要な話って、何」
「聞いて驚くなよ。俺の"十五歳"、もうすぐなんだよ。あと、十日もしないうちに!」
その言葉に、僕は小さく頷きながら思った。十日後のカイルの儀式――今度こそ、誰よりも近くで、何も見逃さないように見ておこう。
置き土産が、これまでの言葉の意味を、また一段深くしてくれた回でした。




