獣が止まったのは、あの人たちのせいだった
隊列が村を発つ日の朝、広場では名残を惜しむように、最後の取引が続いていた。
僕はその喧騒を横目に、荷の点検を進めるガイルのもとへ向かった。
「今日、発つんですよね」
「そうだ。昼過ぎには、隊を組み直して次の村へ向かう」
「その前に……昨日の続き、聞かせてもらえますか」
ガイルは手を止めて、僕を見た。しばらく、何かを測るような沈黙があった。
「……お前、本当に諦めない質だな」
「はい。諦めたら、ここで終わってしまうので」
ガイルは小さく息を吐いた。それから、荷馬車の陰の、人目の少ない場所へ、僕を促した。
「その前に、聞いてほしいことがあるんです」
僕はそう言って、懐から一枚の紙を取り出した。リゼが今朝早く、フェインの伝手を頼って書き写してくれたものだった。
「フェインさんが持ってる、名主同士の連絡網の記録です。灯前村と瀬戸口、どちらにも、獣の出が一時的に静かになった時期の記述が残ってました。うちの村の台帳とは、別の場所の記録です」
ガイルは、その紙をしばらく見つめていた。
「……これを、お前らが自分で見つけたのか」
「はい。うちの村の記録だけじゃ、一件しかありません。でも、別の集落にもう一件見つかったなら、ただの偶然とは思えなくて」
「昨日、聞いたな。獣の出が、あの頃だけ止まっていたって話」
「はい」
「あれは……俺たちの一団が、境の柵に近づいたせいだ」
その一言に、僕はしばらく声が出なかった。
「俺たちの、一団?」
「ああ。あの頃は、まだ行商の路も、知らせの出し方も雑なままだった。境の柵の近くを知らずに通った。そのあと、しばらく獣が出なくなった、という話は、あとになって聞いた」
胸の奥で、棘が鋭く弾けた。
(じゃあ――あの台帳の一行は……)
「台帳に、こう書かれてたんです。『流れ者の一団、境の柵付近で目撃。詳細不明』って。あれは……」
「ああ、それは俺たちのことだろうな。今思えば、な」
ガイルは静かにそう言った。
その言葉が、僕の中で、これまで積み重ねてきた断片と一つに繋がった。
半年前ではなく、何年も前――若い頃のガイルが率いた、先触れのない大きな一団。それが境の柵に近づいたとき、獣の出がぱたりと止まった。台帳に残された、あの簡潔な一文と、灯前村・瀬戸口の記録――二つの独立した記録が、ガイル自身の証言と、同じ答えを指していた。
(獣が、あの一団に合わせて止まってた。偶然じゃない。……でも、なぜそんなことが起きるのか、僕にはまだ見当もつかない)
これまで断片としてしか見えなかったものが、初めてはっきりとした一つの形を持った。
「なぜ、獣が止まったのか……ガイルさんは、分かりますか」
「分からん。ただ、長く商いをしてきて、似たようなことに何度も出会った。この谷だけじゃない。他の村の近くでも、大きな一団が近づくと脅威が静かになる――そんな話を何度も聞いてきた」
「他の村でも?」
「ああ。この谷だけの話じゃない」
「二件だけじゃ、まだ確かな法則とは言えない」
僕は、自分に言い聞かせるように呟いた。
「でも、偶然が二回続くとは思えない。うちの台帳と、灯前村・瀬戸口の記録――それに、ガイルさんの話。三つが、同じ方を向いてる」
数の少なさは、正直、まだ心許ない。だが、方向が揃っているという事実だけは、確かにそこにあった。
ガイルはそこで僕の顔をまっすぐに見た。
「坊主。"疑うな"って言葉も、あんたたちが信じてる決まりも、この谷だけの話じゃないぞ。俺が回ったどの土地でも、形を変えて同じ言葉が根付いてる」
「どこまで、広いんですか」
「見当もつかんくらい、広い。俺が実際に足を運んだ場所だけじゃなく、噂に聞くだけの、もっと遠い場所にまで」
その言葉の重さに、僕は思わず息を呑んだ。
「じゃあ……この谷の外に出たら、同じことがずっと続いてるってことですか」
「そうだ。この谷を出たところで、"疑うな"から逃げられるわけじゃない。もっと広い場所で、もっと深く根を張ってる」
ガイルはそう言ってから、少しだけ目を細めた。
「だが、坊主。それを知った上で、なお進むかどうかは、お前が決めることだ。俺は、ただ見てきたことを話しただけだ」
その言葉を聞きながら、僕の中で、これまでの違和感が一気に姿を変えた。
村の中の小さな矛盾を追いかけていたはずだった。井戸の光、帳簿の改ざん、聖具の精巧さ、獣の規則性――どれも境ノ村という限られた場所の中の話だと思っていた。
だが、獣の出を止めたのが若い頃のガイルの一団だったと知った今、これまでの違和感の一つひとつが、境ノ村という小さな箱の中には収まらない、もっと大きな何かの一部だったのだと初めて確かな重さで実感した。
「怖くないんですか。そんなに広く、"疑うな"が根付いてるのに、それでも商いを続けてるのは」
「怖くない、と言えば嘘になるな。だが、俺は商いをすることしかできん。それに――」
ガイルはそこでふっと笑ったように見えた。
「坊主みたいな目をした奴に、たまに出会うと、まだこの世界も捨てたもんじゃないと思える」
その一言に、僕は何と返せばいいのか分からず、小さく頷いた。
けれど、その笑いの奥に微かな硬さが混じっている気がした。
いつの間にか、片目が少し細くなっている。指先に、微かな熱が灯っていた。偽装看破――表の言葉の裏側を見透かす力だ。
ガイルの笑いは、本物だった。だがその下に、もう一枚別の色が透けて見える。まだ話していないことが、そこに沈んでいる気がした。
「ガイルさん」
「なんだ」
「あんたが"外"で見てきたことを、まだ半分も話してくれてない気がします」
その一言に、ガイルの笑いがすっと消えた。
しばらく、何も言わなかった。馬のいななきが、遠くから聞こえてくるだけだった。
それから、ガイルは初めてまっすぐに僕の目を見た。これまでの値踏みするような視線とは違う。もっと深いところを覗くような目だった。
「……坊主。お前、そんなところまで見えるのか」
「見えるっていうか……分かるんです。最近、少しずつ」
「怖いな、それは」
ガイルはそう言って、小さく息を吐いた。今度の息には、さっきまでの軽さがなかった。
「言う通りだ。半分どころか、ほとんど言ってないに近い。だが、それを今、お前に話すつもりはない。順番があるって言ったろ」
「はい」
「ただ、お前がそこまで見えるようになってるなら――谷を出た後、思ってるより早く色々なものを見る羽目になるだろうな」
「僕は……この村の外に出たら、何を見るんでしょうか」
「それは、俺にも分からん。ただ、この谷の外には、お前が思ってるより、ずっと広い世界がある。恐ろしいものも多い。だが――知る価値のあるものも、同じだけ多い」
ガイルはそう言って、荷馬車の点検に戻っていった。
僕はその場に立ち尽くしたまま、遠くまで続く街道の先を見つめていた。
昼過ぎ、隊列は来たときと同じように、長い列を組んで村を発っていった。ガイルは最後に一度だけ僕の方を見て、小さく頷いた。それだけで十分だった。
隊列が完全に見えなくなるまで、僕はその場を動けなかった。
「ノア」
リゼが隣に立っていた。いつからそこにいたのか、僕は気づいていなかった。
「聞こえてた?」
「途中から、少しだけ。ガイルさんが、"疑うな"は谷だけの話じゃない、って言ってたところ」
リゼはそう言って、街道の先を見つめた。その横顔には、いつもの明るさよりも静かな緊張が浮かんでいた。
「わたしたちが思ってたより、ずっと大きな話だったんだね」
「うん」
「怖い?」
「怖いよ。でも……」
僕は少し考えてから、言葉を続けた。
「知りたい気持ちの方が、今は少し大きい」
リゼはそれを聞いて、小さく頷いた。
「わたしも、一緒に知りたい。もう、ノアだけに全部抱えさせたくないから」
その一言に、喉の奥が小さく詰まった。
これまで、境ノ村という小さな箱の中で違和感を一つずつ拾い集めてきた。だが今、その箱の外に、想像していたよりもずっと広く、ずっと深い何かが静かに広がっているのだと知った。
それは、恐ろしさであると同時に――どうしようもなく、僕を引き寄せる何かでもあった。
いつかこの柵の外に出る日が来たら。そのとき、僕は何を見るのだろう。
この先、何を見つけることになるのか――その予感だけが、はっきりと胸に残った。
長年の引っかかりが、一つに繋がりました。ここまで読んでくださり、ありがとうございます。




