遠い村のはずが、どこも同じ顔をしていた
焚火の灯りの下で、ガイルが古い帳面を一冊、僕の前に置いた。
「約束通り、話す」
護衛たちの交代の声が、遠くでかすかに聞こえていた。市の賑わいはすでに退き、焚火の炎だけが二人の間で静かに揺れている。
「これが俺の荷ノートだ。何年に、どこを回ったか。荷が何だったか。ざっと書き残してきた」
ガイルはそう言いながら、帳面の古い頁を開いた。
「若い頃、先触れを出さずにこの村に来た年。ここに、書いてある」
僕はその頁に目を落とした。年の数字と、簡潔な地名が並んでいる。その横に、僕は思わず声を漏らした。
「これ……」
自衛団の台帳に残っていた、あの一文の年と、ほぼ同じ時期を指していた。
「本当に……来たことがあるんですね」
「ああ。今からすると、もう随分昔の話だ。当時は、まだ俺も隊を率いる立場に慣れてなくてな」
「その時も、こんなに大きな隊列だったんですか」
「規模は、今と大差なかったな。ただ――先触れを出さずに来た。だから、村としては正式な客じゃなく、ただの流れ者が現れた、という扱いになったはずだ」
僕は懐から、リゼに頼んで書き写してもらった自衛団台帳の写しを取り出した。
「うちの台帳に、こう残ってます。『流れ者の一団、境の柵付近で目撃。詳細不明』。この年と、季節……」
隣で、リゼが二つの帳面を並べて見比べた。
「その帳面の日付と、うちの台帳の日付、並べてみようよ」
僕たちは焚火の灯りを頼りに、二つの帳面を並べて数え直した。年はもちろん、季節――境の柵の雪解けが終わる、あの短い時期――までが、ちょうど重なっている。
「……本当に同じ時期だ」
「ぴったりとは言わないが、おおよそ同じ頃だな」
ガイルもそれを認めた。まだ「獣が止まった」という話には、誰も触れていない。ただ、時期という一点だけが、静かに一致していた。
「なぜ、先触れを出さなかったんですか」
「その頃は、まだそういう手順を知らなかった。行く先々の村に事前に知らせを送る、なんてやり方も今よりずっと雑にしかできてなかった。若かったというだけの話だ」
ガイルは焚火の方に視線を落としながら、静かに続けた。
「あの頃は、今よりもっとあちこちを行き当たりばかりで回ってた。決まった路も、決まった知らせの出し方も、まだ何もなかった。ただ荷を運んで、必要な物を交換して次の場所へ向かう――それだけだった」
「その頃から、外の世界を見てきたんですね」
「そうだな。だが、あの頃見たものと今見えてるものは少し違う」
「違う、って?」
「若い頃は、ただの景色として見てた。今は、その景色の裏に何があるのか、少しずつ考えるようになった」
ガイルの声に、いつもよりも重みがあった。
「昔は、ただ遠くまで行けることが嬉しかった。見たことのない山、見たことのない川――それだけで十分だった。だが、長く回るうちにどこも似た顔をしてることに気づいた。景色は違う。だが、そこに暮らす人間が抱えてる息苦しさは、驚くほど同じだった」
「息苦しさ、ですか」
「うまく言えんが……誰も大きな声で疑問を口にしない。それが、この村とほとんど同じ形であちこちにある」
時期が一致していると分かった瞬間、僕の中で何かが静かに軋んだ。境ノ村だけが特別だと思っていた息苦しさが、こんなに広い場所で繰り返されているという実感はまだうまく飲み込めなかった。
「坊主。この谷から、灯前村、瀬戸口、外れ里――そのさらに向こうにも村や町がいくつもある。俺が実際に足を運んだ場所だけでも、両手じゃとても数えきれない」
「そんなにたくさん……」
「そのどこにもこの谷とそう変わらない顔をした人間が暮らしてる。似たような畑を耕して、似たような祭りをして、似たような言葉で似たような決まりを口にしてる」
「そんなにいろんな場所が似てるなんて」
僕はそう呟いた。想像していたよりも、外の世界というものが、遥かに広いのに、遥かに似通っているという事実の方が、不思議と重く感じられた。
「似たような決まり、っていうのは……」
「まあ、それはまた今度ゆっくり話そう」
ガイルはそこで一度、帳面を閉じた。
「今日は、まず時期が一致してることだけ、はっきりさせておきたかった」
「もう少しだけ……教えてくれませんか」
「坊主、何でも一度に知ろうとするな。知ることには、順番がある。順番を飛ばすと、大事なところで足を踏み外す」
その言い方には、拒絶ではなく、どこか経験に裏打ちされた重みがあった。
「あの、もう一つだけ、聞いてもいいですか」
「何だ」
「その、若い頃の隊列が来たとき……何か、変わったことはありましたか。獣とか、村の様子とか」
ガイルの手が、一瞬止まった。
「……なぜ、そんなことを聞く」
「昔の記録に、少し引っかかるところがあって。獣の出が、その頃だけぱたりと止まっていた時期があったみたいなんです」
ガイルはしばらく黙って、僕を見つめていた。焚火の灯りが、その顔に複雑な陰影を作っていた。
「……その話は、また次に、な」
「はい」
「今日は、もう遅い。帰れ、坊主」
ガイルはそれだけ言うと、焚火の始末を始めた。僕はそれ以上は問わず、その場を離れた。
家までの道を歩きながら、僕は今夜聞いた言葉を何度も頭の中で繰り返していた。
若い頃の、先触れのない大きな隊列。二つの帳面に、確かに残っていた同じ時期。それに――どこも似た顔をしてる、というガイルの重い一言。
家に着くと、リゼが戸口の前で待っていた。
「どうだった? 帳面、ちゃんと見せてもらえた?」
「うん。時期は、確かに一致してた。ガイルさんも、それを認めてた」
「本当に?」
「若い頃、大きな隊で先触れもなく、この村に来たことがあるって。それに――どこの村も似たような息苦しさを抱えてるって言ってた」
リゼは少し黙ってから、静かに言った。
「それって……なんだか、思っていたより大きな話になってきたね」
「うん。でも、獣が止まった理由までは、まだ聞けなかった」
「次に、聞けそう?」
「分からない。でも、あの人の目を見てると、今度は逃げずに話してくれる気がする」
リゼは、それを聞いて少し考え込んだ。
「うちの台帳だけじゃ、まだ一件だけだよね。他の集落にも似たような記録が残ってないか、フェインさんに聞いてみようかな。名主同士の連絡網があるはずだから」
「いい考えかもしれない。もし別の場所にも同じような記述があったら、獣が止まった理由も、もう少し確かに見えてくるかもしれない」
夜風が、家の前の木々を静かに揺らしていた。今日聞いた言葉の一つひとつが、まだ僕の中で整理のつかない重さのまま残っている。それでも、確かなことは一つだけあった。
「時期は、確かに一致してる。……あとは、なぜかだけだ」
噂が、本人の口から裏付けられた回でした。




