鍛冶場の帳面を持って、車輪を確かめに行く
「これ見て。遠くの土地の……果物だと思うんだけど」
リゼが、見たこともない形の乾いた実を僕に見せた。表面は皺だらけで、色も境ノ村では見かけない濃い橙色をしている。
「食べられるの、それ」
「甘いって、売り子さんが言ってた。ちょっとずつ味見させてもらったんだけど」
リゼはそう言って、実を小さくちぎって僕に手渡した。口に入れると、思っていたよりずっと濃い甘さが広がった。
「美味しい」
「でしょ? こんな味、村じゃ絶対に作れないよね」
近くの露店では、見たこともない透明な硝子の器や、細かく織られた敷物が並んでいた。売り子は、それぞれの品の由来を聞かれるたびに違う土地の名前で答える。境ノ村では聞いたこともない地名が次々と口から出てくるたび、僕は思わず耳を傾けてしまう。
広場は、二日目にしてすでに市の熱気に包まれていた。染め物、金物、香辛料、見たこともない形の道具――前回よりも品数が多いだけでなく、種類そのものが豊かになっている気がした。
「おい、ノア! お前も見ろよ、これ!」
カイルが、金物の露店の前で手にした小刀を振りつつ、興奮した様子で言った。
「自衛団の道具とは、鍛え方から違うんだ。これなら、魔物相手でも、もっと楽に戦えるかも」
「値段聞いた?」
「……高い。でも、いつか自衛団で稼ぐようになったら、自分で作れるようになるのかな」
トビンも隣で驚いた顔をしてから、少し高いところにあった彼自身の銀の鎌を指した。
「……どこの場所も、自衛団なんだなって気づいただけ」
その一言に、リゼとカイルの両方が黙った。以前のトビンなら、自分からはやってこなかったはずの、こんな交わり方だった。
「あの隊商、前より遠くまで足を延ばしてるのかもしれないな」
ダレンが荷台を覗きながら、そう言った。
「なんでそう思うの」
「品物の種類が、前と全然違う。行商の路が広がってるってことだろ」
以前のダレンなら、こんな観察を口にすることはなかった。少しずつ、彼自身の中でも何かが変わり始めているのかもしれない。
僕は荷馬車の間を歩きながら、ガイルの姿を探した。護衛の一人に指示を出している姿を見つけ、作業の手伝いを申し出るふりをして少しずつ距離を詰めていく。
「今日も、忙しそうですね」
「ああ。前より数が多い分、まとめる手間も増える」
ガイルはそう言いながら、荷台の紐を確かめる作業を続けていた。前回よりは口調にわずかな親しみがある気がした。
「あの、遠くから来た品物って、どこまで足を延ばして手に入れてるんですか」
「南の方まで、な。今回は、いつもより広く回った」
「南の方って、どんな場所なんですか」
「乾いた土地でな。作物より、金物や織物を扱う方が向いてる場所だ。人も、この辺りよりずっと口数が少ない」
「口数が少ない?」
「必要なことしか話さん。だから、余計な決まりも少ないように見えて――実際は、この谷とそう変わらんことが後で分かる」
その言い方に、僕は小さな引っかかりを覚えた。何かをぼかしながら、その実、確かなことを一つこっそり渡してくれているような、そんな話し方だった。
ガイルは手を止めて、僕を見た。
「知りたいことが、多いな、坊主」
「はい。……知りたいことは、たくさんあります」
「その目、変わらないな」
ガイルはそう言って、少しだけ目を細めた。
「前に会ったときも、そんな目をしてた。疑う目、ってやつだ。この谷じゃ、あまり歓迎されない目だろう」
「そうですね。歓迎はされません」
「だが、俺の見てきた限りじゃ、その目を持つ人間はそう多くない。本物の方が珍しいくらいだ」
「本物、って?」
「なんとなく疑うふりをするやつと、本当に飲み込めずに疑い続けるやつ――お前は後者だ。何年も、いろんな村を見てきたが、間違えたことはない」
耳の奥が、かすかに熱を持った。いつもの棘の疼きとは少し違う感覚だった。認められた、という実感だった。誰かに、これまでの自分の在り方そのものをそっと肯定されたような、そんな温度だった。
「それって……いいことなんですか」
「さあな。良いか悪いかは、俺には決められん。ただ、珍しいのは確かだ」
ガイルはそれ以上は語らず、また荷の点検に戻っていった。
「あの……もう少し聞きたいことがあるんですけど」
「今日は、ここまでだ」
短くそう返されて、僕はそれ以上は踏み込めなかった。だが、拒絶ではないことは分かっていた。少しずつ、扉が開き始めている――そんな感触だけが確かに残った。
離れた場所から、リゼが小さく手を振っているのが見えた。僕は市の喧騒の中を、そちらへ歩いていった。
「どうだった?」
「まだ核心には触れてもらえなかった。でも……本物だって言われた」
「本物?」
「疑う目のこと。本当に疑い続けるやつは珍しいって」
リゼは少し驚いた顔をしてから、ふっと笑った。
「それ、なんだか嬉しいことなんじゃない?」
「うん。……そうかもしれない」
「でも、核心の話は、まだって言ったんだよね」
「うん。今日は、ここまでだって、はっきり言われた」
リゼは少し考えるように、荷馬車の並ぶ方角を見た。
「急かさない方がいいのかもね。あの人、たぶん話す順番を、自分の中で決めてる気がする」
「うん。無理に聞き出そうとしても、また閉じてしまいそうな気がする」
「じゃあ、次は、いつ聞けそう?」
「分からない。でも、もう一度くらいは話せる時間があると思う」
僕たちは、市の賑わいの中をしばらく並んで歩いた。遠くの土地の匂いが混じった風が、広場全体を包んでいる。まだ知らない場所の気配をこんな近くで感じられることが、不思議と心を軽くしていた。
夕方、市の片付けがまだ半分ほど残っている時分、トビンが息を切らせて広場の隅までやってきた。両手で抱えているのは、表紙の擦れた、分厚い帳面だった。
「見つけた。蔵の一番奥に、埃をかぶって放り込まれてた」
「これが鍛冶場の帳面?」
「うちの親父の代からの分。もっと前の分もあるみたいだけど、今日は、これだけ持ってきた」
トビンはそう言って、その場にしゃがみ込み、帳面を開いた。細かい字で、依頼のあった修理の内容が、年ごとにびっしり書き込まれている。
「隊商の車軸とか、輪の補修の記録が、何十年分も残ってる。依頼主の名前までは書いてないけど……」
トビンは、指先で一つの記述を示した。
「補修した場所に残る、この鍛接の痕。それと、輪の幅の寸法。これ、今回の隊の荷馬車と、たぶん同じだと思う」
「同じ、って……見ただけで、分かるの」
「鍛冶の仕事をしてると、こういう癖には自然と目が行くようになるんだ。誰が打ったか、どこの流儀か。この幅の規格は、あまり見ない作りだから」
僕とリゼは、思わず帳面に顔を寄せた。トビンの指が示す一行には、確かに、独特の形をした鍛接の跡と、寸法の数字が並んでいた。
「本当に確かめられるかな」
僕が呟くと、リゼが目を輝かせて顔を上げた。
「確かめてみようよ。今回の隊の荷馬車、まだ広場の裏に停まってるはずだから」
「今、行くの?」
「三人でこっそり見るだけなら、怪しまれないよ。荷を運ぶふりをして、車輪のところだけ見せてもらえばいい」
リゼの提案に、トビンも小さく頷いた。
「僕も確かめたい。この帳面、うちの親父が大事に取ってた理由が、今になって少し分かった気がするから」
僕は二人の顔を見て、これまで一人で抱え込んでいた違和感が、ようやく確かめられる形になったのだと感じた。
「今回の隊の車輪を、こっそり確認してみよう」
外の匂いに、少し当てられた回でした。




