なぜあの人は、何も言わずに帰ったのか
「今日も、来たのか」
僕がそう言うと、トビンは少し得意げに笑った。
「うん。母さんが、たまには外に出てきなって」
鍛冶場の仕事を終えたばかりらしく、腕には煤が付いていた。だが、その顔には以前よりずっと自然な色が戻っている。夕暮れの光を受けて、その煤の跡が妙に誇らしげに見えた。井戸端に集まる三人の影が、少しずつ長く伸びていた。
「フェインさんの記帳、これでもう覆らないんだよね?」
リゼの問いに、僕は少し考えて答えた。
「うん。名主の記録に載った以上、村の慣習の上ではもう覆せない。でも、オーレンさんの最終的な判断は、まだ誰にも止められない」
「その先が、心配ってこと」
「うん」
僕たちの間には、まだはっきりとした答えは何もない。ただ、この十日ほどの間に少なくとも一つ、確かなことが見えてきていた。井戸端の石に三人並んで腰を下ろすと、夕方の風が少しずつ涼しくなっていくのを感じた。
トビンの腕には、まだ鍛冶場の煤が薄く残っていた。彼は、それをときどき指先で擦るようにしていた。汚れを気にしているのか、それともその手触りを確かめているのか、僕には分からなかった。
無ノ子と呼ばれる者たちが、村の中でどう扱われているか――それは、もう僕の目にはっきり見えている。だが、その先に、まだ僕の知らない場所がある。
「トビン。前に、記録に名前だけ残ってた人たちのこと、覚えてる?」
「マレイさんの話?」
「うん。あの人たちは、"静養"って名目で村から出された。でも、その先どこに行ってどうなったのか、誰も知らない」
トビンは俯いたまま、小さく頷いた。指先で、地面の小石を無意識になぞっていた。
「僕も、いつかそうなるのかな」
「そうならないように、僕たちが、できることをしてる。――それに、もう"欠陥品"だからってだけの理由じゃ、簡単には外に出せなくなった。それは、覆らない」
「うん。分かってる。でも……もし、僕が、外に出されることになったとしても」
トビンは、そこで少し顔を上げた。その目には、諦めとも覚悟とも取れる静かな色があった。
「その先がどんな場所か、少しでも分かってたら、まだ怖くない気がする」
その一言は、僕の中に静かに沈んでいった。トビンの声には、恐怖よりも、むしろ知らないことへの純粋な不安が滲んでいた。
「怖いのは、分からないことなんだね」
リゼが、そう呟いた。指先で、井戸端の縁をそっとなぞりながら。
「うん。何が起こるか分かってれば、心の準備くらいはできる。でも、何も分からないまま、ただ連れていかれるのは……」
トビンは、そこで言葉を止めた。それ以上は言いたくないのか、言葉が見つからないのか、僕には判断がつかなかった。
「大丈夫。分からないことは僕らが、代わりに調べる」
「うん……頼りにしてる」
トビンは、そう言って少しだけ笑おうとした。その笑みは、いつもよりぎこちなかった。それでも、以前の彼なら、こうして本音を口にすることすら避けていたはずだった。
これまで、僕は村の中の違和感ばかりを追いかけていた。井戸の光、帳簿の改ざん、儀式の裏側、面談の異様さ――どれも、村という限られた場所の中の話だった。僕の視線は、いつも足元のこの境ノ村という小さな範囲の中だけを掘り続けていたのだと、今になって気づく。
でも、トビンの言葉が、その視線を少しだけ外へ広げた。
「この村の外で、無ノ子は、どうなるんだろう」
僕は、それを口に出してみた。まだ答えのない問いだった。だが、その問いを口にした瞬間、これまでとは違う種類の熱が胸の奥に灯った気がした。村の秘密を暴くことだけが目的じゃない。その先にある、もっと広い場所で何が起きているのかを知りたい。
「わたしも、知りたい」
リゼが、隣で静かに言った。両手を膝の上で、そっと組んでいる。
「トビンのことだけじゃなくて……この村が、外の世界と、どう繋がってるのか。それを、ちゃんと知りたい」
「二人とも……ありがとう」
トビンが、そう言って小さく息を吐いた。肩の力が、少しだけ抜けたように見えた。
「僕一人だったら、たぶん、こんな風には考えられなかった」
「一人じゃないから、大丈夫」
僕がそう言うと、トビンは少しだけ頬を緩めた。
三人で、しばらく何も言わずに座っていた。井戸端に、村人たちの声が遠く聞こえる。子供の笑い声、鍬を担いだ誰かの足音、家の戸を閉める音――いつもと変わらない境ノ村の夕方だった。その平凡な音の連なりが、今の僕には、いつもより少しだけ大切なものに感じられた。
空の色が、少しずつ橙から藍へと移り変わっていく。誰かの家から、夕餉の匂いが漂ってきた。この村の日常が、こんなにも穏やかに続いている一方で、その裏側にまだ知らない何かが横たわっているのだと思うと僕は不思議な気持ちになった。
記帳という一手は、確かに一つの盾になった。だが、その盾がどこまで届くのか、僕にはまだ分からなかった。
家に着くと、セルマが夕飯の支度を終えたところだった。鍋から立つ湯気が、狭い台所にほんのり広がっている。
「今日、名主様のところに寄ったら」
セルマが、鍋の火を落としながら、そう切り出した。
「オーレンさんが、記帳の話を聞いて何も言わずに、いつもより早く帰っていったらしいよ」
僕は、その言葉に思わず顔を上げた。
「何も言わずに?」
「うん。村の噂だから、どこまで本当かは分からないけどね」
セルマは、それだけ言うと、また鍋の方に向き直った。だが、その一言は、僕の中で静かに重さを増していった。何も言わなかったということは、何も感じていないということではない。むしろ、そのまま黙って帰ったという事実の方が、僕には落ち着かなかった。あれだけ手順を踏んで子供を選り分けてきた人が、正式な記帳という一手に、その場では何ひとつ返さなかった。怒るでも、覆すでもなく、ただ持ち帰った。それは、この村の中だけで決められる話ではなくなった、という合図のようにも思えた。記帳という一手が、オーレン個人の裁量を超えたどこかへ、もう伝わっているのかもしれない――そんな予感が、夕飯の匂いの中で、静かに胸の底に沈んでいった。
ここまでお付き合いいただきありがとうございます。次はいよいよ外の世界の話です。




