「ありがとう」と、あいつが初めて言った
鍛冶場の炉の熱が、扉の外まで伝わってきた。夕方の風にも消えない、じりじりとした熱気だった。
僕とリゼが顔を出すと、トビンが慣れない手つきで鞴を扱っているところだった。炉の中で、赤く熾った炭が時折爆ぜるような音を立てる。頬に、じんわりと熱が伝わってくるのが分かった。
「どう、板についてきた?」
リゼがそう声をかけると、トビンは少し驚いたように顔を上げた。額から汗が一筋、頬を伝って落ちた。
「まだ全然。腕がもう痛い」
そう言って、笑う。以前のトビンなら、こんな風に自分から笑って見せることはなかった気がする。僕は、その変化に内心少し驚いていた。
「休憩、してもいいの?」
「うん、少しなら」
トビンは鞴から手を離し、井戸端の石に腰を下ろした。額の汗を、袖で拭う。指先には炭の粉が薄く付いていて、袖を汚していた。
鍛冶屋の主人が、遠くから僕たちに軽く手を挙げた。「その子、ちゃんと働いてるよ」――そう言いたげな笑みだった。以前、鍛冶屋の秘密を暴いたときのことを思い出し僕は少し不思議な気持ちになった。あのときは疑いの目で見ていた場所が今はトビンを守る場所になっている。因果とは、案外こんな風に回るものかもしれない。
炉の脇には打ち上がったばかりの鉄具が、何本か並んでいた。まだ熱を持っているのか、表面がわずかに光を帯びている。トビンの手も、慣れない仕事の跡か指の節のあたりが少し赤くなっていた。
「その手、大丈夫?」
リゼが心配そうに、トビンの手を覗き込んだ。指先の水ぶくれの跡を、そっとなぞるように。
「うん、平気。最初は水ぶくれができたけど、もう固まってきた」
「無理はしないでね」
「うん。……ありがとう」
「毎日大変?」
僕がそう聞くと、トビンは少し考えて答えた。
「うん。でも……悪くない」
「悪くない?」
「うん。ここにいると、面談のことも、あんまり考えなくて済む。ただ、鉄を熱くして叩くだけだから」
リゼが、隣で静かに笑った。
「トビン、最近、前より、よく笑うようになった気がする」
「そう?」
「うん。会うたびに、ちょっとずつ」
トビンはそれには答えず、少し照れたように視線を落とした。しばらく炉の火が爆ぜる音だけが、三人の間に流れた。風向きが変わり、熱気がわずかに薄れる。井戸端の水の匂いが、微かに漂ってきた。
「あの……」
トビンが、ぽつりと口を開いた。両手を膝の上で、一度握り直した。
「フェインさんに頼んでくれたこと、ダレンが手伝ってくれたこと、それから……ノアが、あの日、あの面談に一緒にいてくれたこと」
彼は、そこで一度言葉を止めた。喉の奥で何かを探しているような、短い沈黙があった。
「今まで、ちゃんと言えなかったから、言っておきたくて」
「うん」
「ありがとう」
その一言は、これまでのどんな「うん」よりもずっとはっきりと僕の耳に届いた。
「僕から、言うのは初めてだよね。いつも、貰うばかりで」
「そんなこと、気にしなくていいのに」
僕がそう言うと、トビンは小さく首を振った。
「気にしたい。言いたいときに、言っておきたいから」
リゼが、その言葉に少し目を細めた。
「トビン、強くなったね」
「そうかな」
「うん。前は、そういうこと、言えなかった気がする」
トビンはそれには何も答えず、ただ少し口元を緩めた。その表情には、これまで見たことのない静かな明るさがあった。炉の炎が、その顔を橙色に淡く照らしていた。
「実は、鍛冶屋の親方に、コツを教わったんだ。鞴は、一気に押すんじゃなくて、ゆっくり戻すのが大事だって」
トビンが、少し得意げに言った。腕の煤を、指先でこすりながら。
「そうなの?」
「うん。戻すときに、しっかり空気を入れとかないと、次の一押しが弱くなるんだって」
「なんか深い話だね、それ」
リゼがそう言うと、トビンは控えめに笑った。
「親方、口は悪いけど、教え方は丁寧なんだ。最初、怒られるかと思ったら、案外、ちゃんと見てくれてる」
「良かったね」
「うん。……ここに来る前は、正直何もかもが怖かった。誰かに何かを教わるのも、失敗するのも」
トビンはそう言って、少し遠くを見た。
「今は?」
「今は、少しだけ、怖くない。失敗しても、やり直せるって、分かったから」
その言葉を聞いて、リゼが小さく笑った。
「それ、良い言葉だね」
「そう?」
「うん。忘れないようにしなきゃ」
鍛冶屋の主人が「そろそろ、続きだ」と遠くから声をかけた。トビンは慌てて立ち上がり、鞴の方へ戻っていく。その背中を見送りながら、僕はほんの数日前までこの村から静かに切り離されようとしていた彼が、今ここで炎と向き合っていることの不思議さを改めて感じていた。
「じゃあ、また来るね」
「うん。ありがとう、二人とも」
その日、鍛冶場を後にする道でリゼが、ふと言った。夕暮れの道は、風がわずかに冷たくなり始めていた。
「わたしたち、いつの間にか、三人組になってたね」
「そうだね」
「トビンが、あんな風に笑うの、初めて見た気がする」
僕は、頷いた。記帳から、まだ十日ほどしか経っていない。だが、この短い時間の中で確かに何かが変わり始めていた。トビンだけじゃない。ダレンも、フェインも、村の空気も、少しずつ形を変えている。
「ダレンも、意外と、こういうこと気にかけてくれるタイプだったんだね」
リゼが、そう言った。
「うん。前は、そんな風に見えなかったけど」
「人って、きっかけ一つで変わるものなのかも」
「そうかもしれない」
「この調子で、なんとか、オーレンさんが来るまでに、もう少し確かなものを見つけられたらいいけど」
僕がそう言うと、リゼは小さく頷いた。
「うん。記帳のことは、もう覆らない。でも、それだけで安心はできない」
夕暮れの道を、僕たちは並んで歩いた。トビンの笑顔を思い出すたびに、この道の先にまだ見えない何かが静かに待っている気がした。空には、まだ薄い橙色が残っていて、その色が少しずつ藍色に沈んでいくのを僕は黙って見つめていた。
そこへ息を切らせて、ダレンが駆けてきた。額には汗が浮き、頬が赤い。
「聞いたか、噂」
「何の噂」
「ガイル・ソーンの隊が、また来るらしい。前より、もっと大きな隊列で」
僕は思わず、リゼと目を見合わせた。
「本当に?」
「うん。街道の見張りが、遠くに長い荷車の列を見たって話だ。数日中には、着くんじゃないかって」
遠くで誰かの家の煙突から、夕飯の煙が細く立ち上っているのが見えた。境ノ村の、いつもと変わらない静かな夜の始まりだった。だがその静かさの中に、また新しい何かが近づいてくる気配だけが、はっきりと混じっていた。
三人の距離が、少し近づいた回でした。




