覆せない一行を、名主に書かせた
「フェインさんに、頼みに行こう」
トビンの家を出てすぐ、僕はリゼにそう言った。夕方の風が、まだ生々しく残っている面談の緊張を少しずつ引き剥がしていくようだった。
「頼むって、何を」
「トビンを、村の外に出さないでほしいって」
リゼは少し驚いた顔をしたが、すぐに頷いた。
「証拠、まだ足りないんじゃない?」
「うん。でも、待ってたら、遅くなる」
三つの符合。オーレンの言葉と態度。今日の面談で見えたもの。まだ、誰かに完全に証明できる形にはなっていない。だが、待てば待つほど次の一手が近づいてくる――その予感だけは今はっきりとしていた。歩きながら、僕はその一点だけを繰り返し考えていた。オーレンさんが測っていたのは、村がどう動くかだった。なら、村の側から、はっきり動いてみせればいい。
名主の家に着くと、フェインは、僕たちの話を最後まで黙って聞いた。三つの記録の符合、今日の面談での違和感、僕が確信した「見せかけの裏」のこと。話し終える頃には、部屋の中はしんと静まっていた。壁際の燭台の炎だけが、小さく揺れていた。
「……それが、本当だとしたら」
フェインは、そう言ってしばらく目を閉じた。眉間に、深い皺が寄っていた。
「私にできることは、限られている。あの人の判断そのものを、止める権限は、私にはない」
「でも、時間を稼ぐことはできませんか」
僕は、その一点に望みをかけた。声が、自分でも思っていたより強く出た。
「時間?」
「トビンが今、必要だってことにできれば……たとえば、家の仕事とか、村の何かの役目とか。すぐには動けない理由を作れませんか」
フェインは、僕の顔をじっと見た。それから、静かに机の上で両手を組んだ。しばらく、何も言わなかった。その沈黙の重さに、リゼも隣で息を潜めているのが分かった。
「――分かった。あの子を、正式に鍛冶徒弟として村の帳簿に記す」
フェインは、そう言うと、机の引き出しから古びた帳面を取り出した。名主が村の身分や役目を記す、正式な記録帳だった。
「本当ですか」
「名主の記録に載れば、村の役目を持つ者として扱われる。無ノ子であっても、村の役に立つ者を、理由なく外に出すことはできない――少なくとも、この村の慣習の上では」
フェインは、そう言いながらペンを取った。ペン先が帳面の上を滑る、乾いた音が部屋に長く響いた。トビン・ハーロウ、鍛冶徒弟。その一行が、確かな筆致で書き加えられていくのを、僕は息を詰めて見ていた。
「本当に、これで……」
「口約束ではない。名主の記録として、村に残る」
フェインは、そう言って、初めて僅かに笑った。その笑みには、これまで見たことのない、ある種の共犯めいた気配があった。
「お前がそこまで気づくとは、正直思っていなかったよ」
その言葉には、皮肉ではなく、確かな驚きが滲んでいた。フェインは、続けて少しだけ声を落とした。
「気づく力があるのは、良いことでもあり、危ういことでもある。それだけは、覚えておきなさい。――だが、記帳した以上、これはもう覆せない。私にできるのは、これだけだ」
僕は、その一言の重みをすぐには測れなかった。ただ、頷くしかなかった。
部屋を出る間際、リゼがフェインにぽつりと聞いた。
「フェインさんは、昔の記録を見て、何か……思い出したこと、ありますか」
フェインは、一瞬手を止めた。それから、ゆっくりと帳面を書棚に戻しながら答えた。
「昔、父が似たような顔をしていたのを、覚えている。何かを庇おうとして、うまくいかなかった顔だ。それ以上は、私もはっきりとは覚えていない」
その言葉には、はぐらかしとも正直な告白とも取れる微妙な重さがあった。リゼはそれ以上は聞かず、小さく頭を下げた。
名主の家を出ると、外でダレンが待っていた。夕暮れの薄闇の中、彼の輪郭だけが、はっきりと浮かんで見えた。
「どうだった」
「フェインさんが、あの子を正式に鍛冶徒弟として村の帳簿に記してくれた。もう、覆らない」
「そうか」
ダレンは腕を組み、少し考えるような顔をした。かつて、僕を見下していたときの表情とは明らかに違う色があった。
「俺も、何かできることないか。うちの父にも、名主として名前を連ねてもらう。二人の名主が認めた記帳なら、誰にも覆せない」
「ありがとう」
「邪魔にならないようにするだけだ。邪魔になってるのは、あっちの方だからな」
ダレンは、そう言って、詰所の方向を顎で示した。その視線には、以前の反発とは違う静かな苛立ちが浮かんでいた。
「あの人、村じゃ誰も文句言わないだろ。事務的で丁寧で、悪いところなんて誰も見つけられない。だからこそ、厄介だ」
「うん」
「お前が見つけたなら、俺は、それを信じる。理由は分からなくても、そこは変わらない」
その日の夕方、トビンの母から、鍛冶徒弟としての記帳が名主の家で正式に受理されたという知らせが届いた。これで、彼が村を離れることを命じるには、名主の記録そのものを覆す必要がある。その知らせを聞いたとき、僕はようやく肩の力が少し抜けた気がした。
その夜、村の井戸端で幾人かの村人が話しているのを僕は耳にした。桶を下げる音、水を汲む音に混じって、彼らの声が風に乗って流れてくる。
「無ノ子の子を、あそこまで庇うなんて、あの子も、変わってるね」
「変わってるが……あの子がいなかったら、氾濫のときも、もっと被害が出てたって話だぞ」
「そういえば、そうだったね」
「フェインさんまで、あの子の言うことを聞くようになったし」
僕は、それ以上耳を澄ませることはしなかった。ただ、以前とは違う響きで僕の名前が村の中を巡っていることだけは、確かに感じられた。以前は、遠巻きに探るような目で見られることが多かった。今は、その視線にわずかな信頼のようなものが混じっている気がした。
トビンにこの話をしたとき、彼はしばらく黙っていた。それから、俯いたまま、小さく頷いた。何か言おうとして、結局言葉にならなかったようだった。それでも、その沈黙には以前とは違う温度があった。
「鍛冶場、明日から?」
「うん。……ノア、ありがとう」
「まだ、何も終わってないよ」
「それでも」
トビンは、そこで一度言葉を止めた。それから、まっすぐに顔を上げた。
「――ありがとう。これで、少なくとも、"欠陥品だから"って理由だけで、外に出されることはなくなった」
その一言には、これまでのどんな「ありがとう」よりも、確かな実感が込もっていた。
隣で、リゼが静かに口を開いた。
「オーレンさんの判断そのものは、まだ何も変わってないよね」
「うん。分かってる。あの人の権限は、フェインさんにも止められない」
「わたしも、何か手伝えることがあれば言って」
「ありがとう、リゼ」
トビンが、そう言って少しだけ口元を緩めた。ほんのわずかな変化だったが、僕にはそれがこれまでとは違う表情に見えた。
「それでも、覆らないものが一つできた」
僕がそう呟くと、トビンは、もう一度、小さく頷いた。夕暮れの風が、三人の間を静かに通り抜けていった。
小さな一勝でした。次回は、少し穏やかな話です。




