疑われた僕
その力の余波は、思ったより早く村に知れ渡った。
翌日の昼、井戸端で水を汲んでいたとき、視界の端に、誰かが隠した果物の籠の輪郭が、ほんの一瞬だけ薄く光って見えた。慌てて目をこすると、それはもう消えている。まだ自分の意思では制御できない、不安定な発生の仕方だった。
朝から数えて、もう三度目だった。パン屋の裏で焦げたパンの塊がこっそり捨てられていた場所、井戸端の水桶の陰に隠されていた欠けた壺――どれも、誰かがちょっとした失敗や都合の悪さを隠している程度の、些細なものばかりだ。それでも、僕にしか見えないその輪郭が浮かぶたび、心臓が跳ねるように反応する。制御できないというより、力そのものが、まだ自分に慣れていないような感覚だった。
「……またこれか」
小さく呟いた声を、誰かが聞いていた。
「ノア。今、なんか言ったか?」
振り返ると、ダレンが数人の子供を連れて立っていた。名主の息子である彼は、いつもの高圧的な笑みを浮かべている。
「何も」
「隠すなよ。お前、昨日の獣のことも変だったって聞いたぞ。隊長に指示を出したんだって? まるでスキル持ちみたいに」
ダレンの声には、明らかな棘があった。周りの子供たちも、興味と警戒が混じった目で僕を見ている。
「たまたま、規則性に気づいただけだよ」
「たまたま、ね」
ダレンは僕の顔を覗き込むように、一歩近づいた。
「いいか、ノア。俺たちはまだ十四歳だ。儀式前にスキルなんてありえない。それが村の決まりだ。お前がどんなに賢いふりをしたって、それだけは変わらない事実だ」
周りの子供たちが、うんうんと頷く。誰も、ダレンの言葉を疑おうとしない。まるで、その一言だけで議論が終わるとでもいうように。
胸の奥で、棘がぴりっと疼いた。片目が勝手に細くなる感覚があったけれど、僕はそれを抑えた。今、ここで力のことを話すわけにはいかない。
「そうだね。ただ、気づいたことを言っただけだよ」
「それだけで、隊長が動いた。おかしいと思わないのか」
「動いたのは隊長の判断だよ。ダレンだって、雨の前に鳥が騒ぐのを見て畑仕事を早めに終わらせるでしょ? それと同じだよ」
ダレンは一瞬言葉を探すように黙った。周りの子供たちも、その反応につられて視線を彼に向ける。
「……ふん。まあいい。だが今度おかしなことを言い出したら、村長に報告するからな」
ダレンはそう言い残して、子供たちを連れて去っていった。彼の後ろ姿には、いつもの自信のはずが、どこか苛立ちのようなものが混じっていた。
その背中を見送っていると、リゼが横に来た。
「ダレンの言うこと、気にしなくていいよ。あの子はいつも自分より目立つ子が嫌いなだけ」
「うん」
「でも……ノア、本当は何かあったんじゃない? 昨日から、様子が違う気がする」
僕はリゼの顔を見た。彼女の目には、責める色ではなく、ただ静かな心配だけがあった。
「もし何かあっても、わたしはノアを疑わない」
その一言に、胸の奥の熱が、少しだけ和らいだ気がした。話してしまいたい、という気持ちが一瞬だけ強く湧いたけれど、僕はまだそれを飲み込んだ。まだ自分でも、この力の輪郭を掴みきれていない。誰かに話す前に、もう少し自分の中で確かめておきたかった。
「……ありがとう」
僕はそれだけ言うのが精一杯だった。あの部屋で見たものを話すには、まだ心の準備ができていなかった。それでも、リゼが何も聞かずに信じてくれることが、こんなに心強いとは思わなかった。
その日の午後、僕は隠れて村長フェインの様子を追った。
フェインは相変わらず集会所にこもり、時折外に出て、誰かに宛てた手紙らしきものを、行商人に密かに預けている姿を見た。手紙を渡す手つきは、どこかぎこちなく、周りに人がいないことを何度も確かめてからのものだった。
その所作は、いつもの威厳ある村長の姿とは違って見えた。誰かの目を気にするような、そわそわとした落ち着きのなさがあった。
(あの帳簿のことを、誰かに報告してるんだろうか)
僕はまだ、あの二つの帳簿の意味を完全には理解できていなかった。村の体面を守るためだけなのか。それとも、もっと別の理由があるのか。
夕方、フェインが行商人を見送ったあと、ふと空を見上げる姿があった。僕も思わずその視線を追って空を見た。夕焼けの色が沈んでいく速さが、いつもよりわずかに一定に感じられる――そんな取るに足らない違和感を覚えながら、その横顔に、僕は思わず足を止めた。
いつもの温和な表情の下に、これまで見たことのない、深い陰りがあった。まるで、何かに追い詰められているような顔だった。手にした杖を、いつもより強く握りしめている。
胸の奥で、棘がぴりっと疼いた。
村長フェインは、いったい何を、誰に対して隠しているんだろう。
その陰りは、ただの疲れではないと、僕には分かった。
家に戻る道すがら、僕はカイルに呼び止められた。
「なあ、ノア。ダレンがお前のこと、いろいろ言ってたぞ」
「聞いたよ、自分で」
「気にすんなよ。あいつ、権力ある家の子だからって、いつも偉そうなだけだ。お前が村を助けたのは本当だろ」
カイルの言葉には、いつも通りの明るさがあった。それでも、その裏に「疑わないこと」への絶対的な安心が透けて見えて、僕は少しだけ複雑な気持ちになった。
「疑うとか、そういうの、面倒じゃないか? 信じてりゃ楽なのに」
そう続けたカイルの言葉には、悪意なんてこれっぽっちもなかった。だからこそ、その無邪気さが、村の"当たり前"がどれだけ深く根を張っているかを、静かに教えてくれる気がした。
「うん、ありがとう」
僕はそう答えるしかなかった。
夜、床に入っても、フェインの陰りのある表情が、頭から離れなかった。あの帳簿は、確かに彼が誰かに隠れて何かをしている証拠だ。だが、その先に何があるのか、僕にはまだ分からない。
分からないことを、そのままにしておけない。
その気持ちだけは、これまでと変わらなかった。むしろ、あの力を手にした今、それはさらに強くなっている気がした。
翌朝、朝食の席で、祖母のセルマが珍しく僕の顔を長く見つめていた。
「ノア。この間から、少し目つきが変わった気がするよ」
「そうかな。変わってないと思うけど」
「昔から、お前がそういう顔をするときは、何かを掴もうとしているときだ」
セルマはそう言ったきり、それ以上は何も聞かなかった。ただ、パンを差し出す手が、いつもより少しだけ長く僕の手に添えられていた。何かを確かめるような、あるいは何かを覚えておこうとするような、静かな触れ方だった。
その日一日、僕はセルマの言葉を何度も思い返した。祖母は、この村で誰よりも長く生きている。もし彼女が、僕の変化に気づいているのなら――その先に、僕がまだ知らない何かを、彼女自身も抱えているのかもしれない。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。セルマとのやり取り、静かな回でした。




