知らぬが仏、疑わぬが幸い
数日の間、僕は村長フェインの言動をこっそり観察し続けた。
集会所への出入りは相変わらず多く、行商人以外にも、時々、見慣れない旅装の男が訪ねてくることがあった。フェインはその男と、いつも短く、声を落として話す。話が終わると、男はすぐに村を出ていき、二度と同じ日には姿を見せない。内容までは聞き取れなかったけれど、村の中の誰にも聞かれたくない話であることだけは分かった。
僕はその様子を、井戸端の陰や、集会所の裏の柵越しから、何度も見ていた。誰かに気づかれれば、また「疑い病の子がまた変なことをしている」と噂されるだけだ。それでも、確かめずにはいられなかった。あの熱が胸に灯った日から、僕はもう、見て見ぬふりをする自分に戻ることができなくなっていた。
観察を続けるうちに、ひとつ気づいたことがあった。フェインが旅装の男と話す日は、必ず数日前から様子がおかしくなる。落ち着きなく集会所の中を歩き回り、村人への声かけがどこか上滑りになる。まるで、来訪の予定そのものが、フェインにとって重い負担であるかのようだった。
ある日の夕方、僕は思い切ってフェインに声をかけた。
「村長、少しお話があります」
「――ノアか。何だ」
集会所の前で、フェインは僕を見て一瞬だけ肩を強くした。それから、いつもの温和な表情に戻る。
「あの帳簿のこと、聞いてもいいですか」
僕がそう言った途端、フェインの顔から表情が消えた。
「……何のことを言っているのか、分からないな」
「二つの帳簿があります。ひとつは、本当の被害の数字。もうひとつは、それより少ない数字が書かれたもの」
フェインは長い間、僕を見つめていた。反論も、否定も、何も出てこない沈黙だった。
やがて、フェインはため息をついて、集会所の椅子に腰を下ろした。
「……座れ、ノア」
僕は言われるまま、向かいの椅子に座った。窓から差し込む夕陽が、フェインの顔に長い影を作っていた。
「お前は、知りたいんだろうな。何もかも」
「知らないままにしておくことが、僕にはできないんです」
フェインは静かに頷いた。その目には、怒りではなく、どこか諦めに近い色があった。
「この村では、被害の数字が大きすぎると、村そのものの評価が落ちる。灯の谷の他の村々と比べられ、援助が減らされ、面倒な調査が入る。だから、少し――手心を加えている」
「それだけですか?」
「それだけだ」
フェインの答えは、あまりに整いすぎていた。理屈としては通っている。だが、僕の中の何かが、まだ引っかかっていた。理屈が正しいことと、それが全部の理由であることは、同じじゃない。
「村長。あなたはいつも、"疑うな"と僕たちに言います。でも、それは僕たちを守るための言葉なんですか? それとも――」
「知らぬが仏、疑わぬが幸い」
フェインが、僕の言葉を遮るように呟いた。
「この村の平穏は、誰も余計なことを知らず、余計なことを疑わないことで保たれてきた。お前がどれだけ鋭くても、それは変えられない、この村の在り方そのものなんだよ」
その言葉は、静かで、確信に満ちていた。まるで、何百年も繰り返されてきた真理を語るように。
「知らないことが、幸せなんですか」
「知らなければ、傷つかない。悩まない。誰も孤立しない。それが、この村が長く保ってきた仕組みだ」
フェインの目は、遠くを見るように少し揺れていた。まるで、その言葉を自分自身に言い聞かせているようにも見えた。誰かに教え込まれた言葉を、自分のものにするために、何度も繰り返してきたような口ぶりだった。
胸の奥で、棘がぴりっと疼いた。
その一瞬、フェインの声が微かに震えたのを、僕は聞き逃さなかった。
(今の言葉は、村の建前じゃない。村長自身の記憶だ)
だったら、その記憶に触れてみればいい。僕はわざと少し踏み込んだ問いを選んだ。
「村長。あなたも――昔、何かを疑ったことがあるんですか」
その問いに、フェインの表情が明らかに動いた。目の奥で、何かが揺らいだ。
「……なぜそんなことを聞く」
「今の言い方が、まるで実際に経験したことがあるみたいに聞こえたので」
「――思い違いだ」
フェインは早口でそう答えると、椅子から立ち上がった。その動きは、いつもの落ち着いた村長の姿とは思えないほど、速かった。
「今日の話は、これで終わりだ。ノア、お前も、余計なことを考えず過ごした方がいい。それが、お前自身のためだ」
そう言って、フェインは僕を残して集会所の奥へ消えていった。
その足取りは、いつもより明らかに速かった。
情報は結局何も得られなかった。それでも、大人をあそこまで動揺させたのは僕だ。狙って放った一言が確かに刺さった。
僕は一人、椅子に座ったまま、今の会話を頭の中で組み立て直していた。
村の体面のため――その説明は、確かに理屈としては成り立っている。だが、フェインが最後に見せた動揺は、村の体面を守るだけの人間が見せるものじゃなかった。
まるで、自分自身の何かを、僕に見透かされることを恐れているような。
夕陽が沈み、集会所の中が徐々に暗くなっていく。僕はしばらくそこに座り続けたまま、フェインの声を思い出していた。「知らぬが仏、疑わぬが幸い」――村の誰もが疑わずに唱えるその言葉を、フェインは今日、いつもより強く、いつもより必死に口にしていた気がした。
まるで、その言葉を自分自身に言い聞かせなければ、今にも崩れてしまいそうな、そんな必死さだった。
外に出ると、すっかり日が落ちていた。井戸端に灯る夜番の火が、遠くでちらちらと揺れている。見上げた星々は、昨夜と同じ位置で同じように瞬いていた。当たり前のはずのその光景が、今夜はなぜか、当たり前に思えなかった。いつもと変わらないはずの村の景色が、今夜はどこか違う色に見えた。
家に向かう道の途中、リゼが暗がりの中から声をかけてきた。
「今日、村長の家から出てくるところ見えたよ。何かあった?」
「うん……ちょっと話をしただけ」
「顔、いつもより疲れてる」
僕はそれ以上、何をどう話せばいいのか分からなかった。フェインが見せた小さな矛盾も、その裏にある何かも、まだ自分の中で形になっていない。
「今度、ちゃんと話すよ。まだうまく言葉にできないだけ」
「うん。急がなくていいよ」
リゼはそう言って、それ以上は聞かなかった。その静かな距離感が、今の僕には何よりありがたかった。
家に戻ってからも、フェインの言葉が頭の中で何度も繰り返されていた。「知らぬが仏、疑わぬが幸い」――その響きは、村長個人の考えというより、もっと古くから村に刷り込まれてきた言葉のように聞こえた。誰が最初にそれを言い出したのか、誰も知らない。それなのに、村中の誰もが、その言葉だけは正確に、同じ調子で口にする。
その均一さこそが、いちばん不自然だと、僕は思った。
その小さな矛盾が、僕の中でひとつの棘として残った。
今回は短めです。次回、また村の話に戻ります。




