二冊の帳簿を暴いた日、目が変わった
翌朝、村はまだ昨夜の獣の話で沸き立っていた。
「聞いたか、ノアが獣の動きを言い当てたって」「まさか」「隊長が言ってたんだから本当だろ」――そんな声が井戸端のあちこちから聞こえてくる。水が戻ったことは村中が知っていたが、それは「よかった」で済む実務的な安堵にすぎず、誰の口にも長くは残らなかった。だが、今度は違った。噂は好奇心と不安を半分ずつ抱えたまま、村中を巡っていた。中には「疑い病の子に、村を任せる気か……」と苦い顔で呟く年配の男もいた。
僕は、その話の輪から少し離れて、村長フェインの様子を見ていた。
いつもなら朝の集まりに顔を出し、村人に声をかけて回るはずのフェインが、今日は集会所にこもったまま出てこない。窓の外から覗くと、机の上に何冊もの帳簿を広げ、忙しく書き込んでいる姿が見えた。
普段の彼にしては、妙に急いた手つきだった。ペンを走らせる音が、ここまで聞こえてくるくらいの速さだった。
(何をそんなに焦って書いてるんだろう)
胸の奥で、棘がぴりっと疼いた。
昼過ぎ、フェインが用事で外へ出た隙に、僕は集会所の裏口からそっと中に入った。誰もいない部屋の中は、いつもの静かな威厳が消えて、ただの書類の山になっている。
机の上の帳簿には、今年の被害報告――畑の被害、家畜の損失、獣の襲撃記録――がびっしりと並んでいた。
僕は昨夜のことを思い出しながら、記録を確認する。
けれど、数字がおかしい。
昨夜あれほど大きな獣が来て、隊列の何人もが弾き飛ばされたのに、報告書には「小型の獣一頭、被害軽微」としか書かれていない。
(軽微……? あんなに大きかったのに)
ページをめくると、去年、一昨年の記録にも、同じような書き方が続いていた。実際の被害よりも、いつも少なく、いつも軽く。まるで、誰かがずっと数字を薄めてきたかのように。
念のため、僕は机の下の引き出しも一つずつ確かめた。最初の二段は、単なる筆記用具と古い羊皮紙が入っているだけだった。だが、最後の引き出しは、鍵がかかっていないのに、やけに固く動きにくい。
指の感覚だけを頼りに探ると、奥の板が薄く浮いているのに気づいた。押すと、隠された小さな棚が現れる。そこに、古びた別の帳簿が押し込まれていた。
表紙には何も書かれていない。開いてみると、そこには本当の被害の数字が――僕が知っている、実際の惨状に近い数字が――細かい字で記されていた。
二つの帳簿。表向きの、薄められた数字。そしてこの、本当の数字。
(なぜわざわざ二つに分けて書く必要があるんだろう)
僕は帳簿を持つ手に、思わず力を込めた。
村長フェインは、村の平穏を守るためだけに「疑うな」と言い続けているわけじゃない。彼自身が、何かを隠している。誰かに向けて、実際より少ない数字を見せるために。
――誰かに、見せるために。
そこまで考えた瞬間、頭の中で、これまで見てきた小さな違和感が、ひとつずつ音を立てて繋がっていく気がした。
井戸の底の金属質の光。獣の規則正しすぎる動き。フェインの、いつもの温和さの下に隠れた、あの見定めるような目。
全部が、ひとつの答えに向かって、静かに集まってくる。
なぜ隠すのか。
誰かに、都合の悪い数字を見せないため。
誰かに――この村の外にいる、誰かに。
「……そうか」
その一言が口から漏れた瞬間、胸の奥で、棘がこれまでとは違う音を立てた。
ぴりっ、ではなく――弾けた。
火花のような熱が、胸の中心から一気に広がる。目の奥が焼けるように熱くなり、視界が一瞬、真っ白に染まった。
「な、なに……」
僕は帳簿を取り落とし、後ずさった。心臓が、これまで感じたことのない速さで打っている。息が浅くなり、両膝から力が抜けそうになる。
けれど、痛みじゃなかった。
熱が引いていくと、視界がゆっくりと戻ってくる。だが、何かが違う。
机の上に落ちた本物の帳簿の、表紙の下に――さっきまでは絶対に見えなかったはずの、薄い封蝋の輪郭が、ほんの一瞬だけ、淡く光って見えた。まるで、隠されたものだけが、僕にだけ薄く縁取りされて浮き上がるように。すぐそばの引き出しの奥、まだ僕が触れていない別の書類の存在すら、輪郭だけがちらりと透けて見えた気がした。
まばたきをすると、その光はもう消えていた。
でも、見間違いじゃない。確かに、見えた。
僕は自分の両手を見下ろした。何も変わっていないように見える、ただの十四歳の手だ。それでも、指先まで熱が伝わっていて、まだ微かに震えている。
「隠されたものが……見える?」
誰もいない部屋の中で、僕は自分の声にすら驚いた。
これまで、誰も聞いたことがない。十五歳の儀式より前に、こんな力が現れるなんて、村の誰からも一度も聞いたことがなかった。
普通なら、ここで怖くなるはずだ。自分がまた「疑い病」の子として、もっと村から遠ざけられてしまうんじゃないかと。
けれど、不思議なくらい、怖くなかった。
これまで、疑うことは僕をひとりぼっちにするだけの、厄介な性分だと思っていた。誰にも理解されない、恥ずべき欠点だと。物心つく前から、それを飲み込んで生きてきた。
でも――違う。
疑って、確かめて、腑に落ちたとき。それは呪いじゃなく、僕にしか使えない、僕だけの力になる。
これまで抑え込んできた分だけ、その解放は強かった。まるで、長い間閉じ込めていた息を、初めて胸いっぱいに吸い込んだような感覚だった。誰にも肯定されたことのない自分の性分が、たった今、初めて自分自身の手で肯定された。
窓の外から、村人たちの笑い声が遠く聞こえてくる。誰も、こんなことが今この部屋で起きているなんて、気づいていない。
僕は帳簿を静かに元の場所へ戻し、隠し棚をもとに閉じてから、集会所を出た。
外に出ると、日差しがいつもより眩しく感じられた。目を細めて空を見上げると、太陽の高さが、今の季節にしては妙にまっすぐ頭上に近い気がした。そんな些細な違和感を振り払うように、僕は瞬きをする。
井戸端のほうから、リゼが慌てた様子で駆けてきた。手に何も持たず、しゃがみ込んでは地面を見回している。
「リゼ? 何してるの」
「あ、ノア……。ちょっと探し物があって」
「探し物?」
「うん。母さんの形見のブローチ。さっき井戸の水を汲んでるときに袖に引っかかって、気づいたらもう無くなってて」
リゼの声は、いつもより早口で、少し泣きそうだった。彼女は井戸端の周りの草をかき分け、屈み込んで地面を探している。
僕はまだ頭の芯にさっきの熱の余韻を残したまま、彼女の探す様子をぼんやりと見ていた。何か力になれないかと考えているうちに、頭の中で、さっき見たものと同じ感覚がふっと蘇る。
その瞬間だった。
視界の端に、何かの輪郭がふわりと浮かび上がった。井戸端の桶置き場の、積まれた木箱の隙間――普通に見れば、ただの影にしか見えない場所に、小さな金属の光る縁だけが、うっすらと透けて見えた。
「リゼ、そこの木箱の隙間を見てみて」
「え? どこ」
「井戸の桶置き場にある木箱の下だよ」
リゼは半信半疑のまま木箱をずらし、隙間に手を差し込んだ。
「――あった! ほんとにあった!」
彼女が取り出したのは、小さな鳥の形をした銀色のブローチだった。長年の使い込みで少しくすんでいたけれど、確かに大事にされてきたものだと分かる作りをしている。
「なんで分かったの? あの辺りは全然見てなかったのに」
「……なんとなく目に入った気がして」
僕は、それ以上うまく説明できなかった。狙って見たわけじゃない。頭の中で考えていたら、ふっと視界の端に浮かんだ、それだけだ。これを自分の意思で起こせるのか、次も同じように見えるのか、僕自身にもまだ何も分かっていない。
「ノア、目がいいんだね。すごいや」
リゼは涙目のまま、それでも嬉しそうに笑って、ブローチを両手で包んだ。種明かしをする気にはならなかった。ただ、彼女の顔から不安が消えていくのを見て、胸の中の熱が、また少し柔らかくなった気がした。
「わたしはノアがそういう顔してるとき、ちょっと安心するんだ。……変なこと言ってるかな」
「変じゃないよ」
僕はそう答えるのが精一杯だった。あの部屋で起きたことを、まだ言葉にする準備はできていなかった。それでも、リゼのその一言が、胸の中の熱をわずかに柔らかくしてくれた気がした。
「なんでもないよ」
そう答えながら、僕は胸の中に灯った熱を、もう一度確かめる。
もう隠す必要はない。少なくとも、自分自身に対しては。
夕暮れの空を見上げながら、僕は誰にも聞かせない声で、そっと呟いた。
「――これは呪いじゃない。武器だ」
その言葉は、これまで誰にも聞かせたことのない、僕自身のための誓いだった。
ノアの気持ちが固まった回でした。気に入っていただけたら、ブックマークで残していただけると嬉しいです。




