数えた拍を信じて、爪をかわした
爪が月明かりを弾いた、その一瞬。
僕は数えていた拍を信じた。
三つ、二つ――このリズムが本当なら、次の軌道はまっすぐじゃない。わずかに左へ流れる。
考えるより先に、体が動いた。
横に身を投げた瞬間、爪先が肩をかすめて地面を裂いた。焼けるような痛みが走ったけれど、致命傷にはならなかった。転がった先の土の匂いと、鉄のような血の匂いが、鼻の奥にじんと残る。
「ノア!」
リゼの叫び声が、耳の奥で割れる。
倒れたまま、僕はもう一度リズムを数え直した。三つ、二つ。獣は、今まさに次の動作に入る間際だ。
「隊長! 今です、左に回り込んでください!」
声を張った瞬間、片目が勝手に細くなる感覚があった。頭の芯だけが冷えて、周りの怒号が一段遠くに聞こえる。まるで、自分だけが別の速さで時間を数えているような感覚だった。
隊長は迷う暇もなく、僕の声に従って男たちを動かした。獣の側面に回り込んだ数人が、一斉に槍を突き出す。
獣は、避けようとして体をよじった――が、そこにはすでに二本の槍が待ち構えていた。深く突き刺さった一撃に、獣が短く吠え、体を大きく震わせて後退した。
その拍子に、境の柵の向こうへ、ずるずると引くように姿を消していく。
誰かが投げた最後の松明が、逃げていく獣の背を一瞬だけ照らした。それきり、闇の中に音は消えた。
静寂が戻るまで、誰も声を出せなかった。夜風だけが、乱れた松明の火をゆっくりと揺らしている。
やがて誰かが「――退いたぞ」と呟くと、それが合図のように、村人たちの間に安堵のため息が広がっていった。倒れていた男たちが、互いに助け合いながら立ち上がる。
「ノア!」
リゼが真っ先に駆け寄ってきて、僕の肩の傷を見て顔を歪めた。
「血が出てる……!」
「かすっただけだよ、平気」
「平気じゃないよ、こんなに……!」
そう言いながら、リゼは自分の袖を無理やり引きちぎって、傷口に押し当ててくれた。手が小さく震えているのが伝わってくる。彼女の指の冷たさが、傷の熱よりもはっきりと感じられた。
近くで負傷者に肩を貸していたカイルも、遅れて駆け寄ってきた。
「おい、ノア、生きてるか!?」
「うん……なんとか」
「お前が声を上げなきゃ、隊長たちもっと持ってかれてたぞ。すごいじゃないか、ノア!」
カイルの声は、心配と興奮が半分ずつ混じって、ひっくり返りそうになっていた。
「ノア、さっきの……どうして分かったんだ」
隊長が、興奮と困惑が半分ずつ混じった顔で歩み寄ってきた。返り血のついた頬に、まだ荒い息が残っている。
「あの獣の動きが、数えられるくらい規則正しかったんです。三つ数えて突進、二つ数えて後退。ずっと同じリズムでした」
隊長は僕の言葉を、しばらく黙って噛みしめていた。それから、僕の肩をがっしりと掴んだ。
「……よく見ていた。誰も死人を出さずに退けたのは、お前のおかげだ」
その言葉に、周りの男たちからも「すごいぞ、ノア」「まさかあんなことが分かるとは」と、次々に声が上がった。誰かが僕の背中を叩き、誰かが笑って肩を組んできた。これまで感じたことのない、まっすぐな祝福だった。
村長フェインも人垣をかき分けて僕の前まで来ると、静かに頭を下げた。
「よくやった、ノア。お前の観察力は、今夜、村の役に立った。感謝する」
「……いえ、そんな」
フェインの声は、本当に温かかった。その目の奥に一瞬だけ見定めるような色が差した気がしたけれど、すぐにいつもの柔らかな笑みに変わったので、気のせいだと思うことにした。
胸の中に、これまで知らなかった熱がじんわりと広がっていく。褒められることに慣れていない僕は、その熱の扱い方が分からず、ただ何度も頷くことしかできなかった。
村人たちが少しずつ散っていく中、僕はリゼとカイルと三人で、ゆっくりと家路をたどった。
「井戸の時もすごいと思ったけど、今日のはもっとすごいぞ。ノアがあんなに頼りになるって、改めて分かった」
カイルがそう言って、僕の背中を軽く叩く。
「たまたまだよ」
「たまたまでも、みんなを助けたのは事実だろ」
リゼは何も言わず、ただ嬉しそうに笑っていた。
人垣が完全に散った、その少し後ろから――
「疑い病の子が、今夜だけ運がよかったのさ」
そんな声が、遠くから小さく聞こえた。誰の声かは分からなかった。振り返っても、もう誰の顔も見えなかった。
僕は少しだけ立ち止まったけれど、それ以上気にしないことにした。今夜だけは。
その夜、家に戻ると、祖母のセルマが傷の手当てをしてくれた。ランプの明かりの下、彼女の手つきはいつもより丁寧だった。
「無茶なことをして……お前が無事だったから、良かったけれど」
「うん、ごめん。でも、みんな喜んでくれたよ」
「そうね。よく頑張ったわね」
セルマは優しくそう言って、僕の頭を一度撫でた。それから、包帯を巻く手を静かに動かしながら、少しだけ声を落とした。
「……お前の両親も、昔からそういう子だったよ」
その一言に、僕はセルマの顔を見た。彼女は僕を見ずに、包帯の端を結ぶことだけに集中しているようだった。何かを言いたくて、それでも言葉を選んでいるような、そんな沈黙が部屋に落ちた。
「どういう子だったの?」
「……昔のことよ。今は、そのことは考えなくていい」
セルマはそう言うと、包帯を結び終え、僕の頭を一度だけ軽く撫でて、部屋を出ていった。
戸口で一瞬だけ足を止めて、振り返らずに何かを呟いたようだったけれど、僕にはよく聞き取れなかった。
布団に入ってからも、僕はなかなか眠れなかった。
肩はまだ熱く、けれどそれよりも強く、胸の奥に別の熱が残っている気がした。
今日、僕が村の役に立てたのは、力があったからじゃない。疑って、確かめて、それを声に出したからだ。
これまで、疑うことはいつも僕を孤立させるだけの、厄介な性分だと思っていた。人と違う目で物事を見てしまう自分を、どこかで恥じてきた。井戸の水位のことも、村の"当たり前"のことも、誰にも言えずに、ただ胸の奥に押し込めてきた。
けれど今夜、それが初めて、誰かを守る力になった。
天井の木目をぼんやり見つめながら、僕は自分の胸に、そっと手を当ててみる。
まだそこに、小さな熱の粒が残っている気がした。名前も分からない、けれど確かに灯っている何か。
「もし、これが……力になるとしたら」
その言葉が、静かな部屋の中で、いつまでも消えなかった。
セルマの一言だけが、その熱に混じって、いつまでも耳の奥に残っていた。両親も、僕と同じように「変わった子」だったという。もしそうなら、二人の身に起きたことにも、単なる病気以上の何かが関わっているのかもしれない。まだ確かめる術はない。それでも、この夜の出来事が、これまでとは違う何かの始まりなのだという予感だけは、はっきりと胸に残っていた。
少し長めの回でした。次はまた別の日の話になります。




