なぜこの獣は寸分違わぬ拍子で襲ってくるのか
鐘の音が、夜の静寂を切り裂いた。
さっきの不気味な音とは違う、村中に危険を知らせる早鐘だ。
(そういえば、明日は豊穣祭りの前夜だ)
こんな大事な日の前夜に限って、こんな大物が現れる。そのタイミングの良さが、混乱の中でも僕の中にちらりと引っかかった。
僕は寝間着のまま部屋を飛び出した。外に出ると、すでに村の男たちが武器を手に境の柵へ向かって走っていく。松明の明かりが、いくつも夜道を縦に走っていた。
背後で、祖母セルマの声が追いかけてきた。
「ノア、危ないから家にいなさい!」
けれど僕は聞こえないふりをして走り続けた。今は、じっと待っていることの方が耐えられなかった。
「魔物だ! 柵の外から来た!」
誰かの叫び声で、それが何を意味するのか理解した。境ノ村では滅多に起きないが、ないわけではない――柵の外からやってくる"魔物"の襲撃。物語のような響きを持つその言葉が、今この瞬間、現実として目の前にある。
「ノア、こっちだ!」
カイルの声だった。彼は自衛団の一員である父親のもとへ駆けていく途中で、僕を見つけて手を振っていた。僕はほとんど反射的に彼の後を追った。
境の柵の前には、すでに男たちが集まっていた。何十人もの村人が、農具や剣を手に、闇の向こうを見据えている。
女たちと子供たちは、村長フェインの指示で公民館へ避難させられていく。泣き声と怒声が入り混じる中、リゼが人混みをかき分けて僕の隣に駆け寄ってきた。
「ノア、無事だった!?」
「うん……。リゼこそ、避難しなくていいの?」
「ノアを一人にできないよ」
そう言うリゼの声は震えていたが、その場を離れようとはしなかった。
自衛団の男たちが柵の前に並び、松明の明かりが揺れる中、闇の向こうから低い唸り声が近づいてくる。
やがて姿を現したのは、灰色の体毛に覆われた、犬より大きく熊より鋭い獣だった。目は淀んだ赤色で、口からは絶えず唸り声が漏れている。柵の隙間から漏れる光に、濡れた牙が光った。全身の毛が逆立ち、肩の辺りの筋肉が異様なほど盛り上がっている。図鑑や言い伝えで聞いていた"魔物"よりも、ずっと生々しく、ずっと大きい。
村人たちの間に、ざわめきが広がった。こんな大物が柵まで来たのは、少なくとも僕が生まれてからは一度もない。
「怯むな! いつもの手順でいくぞ!」
自衛団の隊長らしき男が声を張る。男たちは陣形を組み、獣を柵の外へ押し戻そうと動き始めた。槍を構えた男たちが横一列に並び、獣の突進を受け止めては押し返す。何度も繰り返してきた"いつもの手順"らしく、動きに迷いはない。だが、獣の力は予想以上に強く、隊列の何人かが後ろへ弾かれた。
僕はカイルに腕を引かれて、気づけば戦いの端に立たされていた。
「危ないから下がってろ、ノア!」
「でも……」
言い返す暇もなく、獣が咆哮を上げて突進してくる。悲鳴と怒号が飛び交い、松明の火が乱れる。誰かが叫び、誰かが転び、誰かが槍を突き出す。混乱そのものが渦のように広がっていく。
村長フェインの声が、混乱の向こうから響いた。
「怖がらず、ただ手順どおりに動け! それだけでいい!」
その言葉が、ふだんの"疑うな"という教えと同じ響きを持っていることに、僕は妙な息苦しさを覚えた。こんな時でさえ、この村は"考えるな"と言い続ける。
カイルが自衛団の後方で、負傷した男に肩を貸して下がらせている。彼の顔から、いつもの明るさが消えていた。
その混乱の中で、僕は妙なことに気づいた。
獣の突進の間隔が、いつも同じなのだ。
一度突進し、後退し、また突進する――そのリズムが、まるで決められた手順をなぞるように、正確すぎるほど一定だった。獣らしい荒々しさの中に、機械のような規則性が紛れ込んでいる。
(これは……本能で動いてる感じじゃない)
普通の獣なら、興奮すればもっと不規則に、もっと予測できない動きをするはずだ。傷を負えば怯むはずだし、有利な標的がいれば迷わず追うはずだ。なのにこの獣は、傷を負っても同じ間隔で突進を繰り返し、まるで誰かが決めた"型"をなぞっているように見えた。
数を数えるように、僕は目で追った。三拍おいて突進、二拍おいて後退。まるで踊りの振り付けのように、狂いなく繰り返される。
三拍……二拍……。同じリズムが三度目、寸分の狂いもなく繰り返されたのを数え終えた瞬間、僕は思わず声を上げた。
「隊長! 次、右から来ます! 三つ数えたら跳びます!」
三度続けて同じ間隔を数えられたのだから、四度目も同じはずだ。そう考える理屈は、自分の中でちゃんと繋がっていた。ただ、それを声にする速さだけが、頭で考えるよりも先に来た。
隊長は一瞬僕を見て、それでも半信半疑のまま指示を変えた。
「右に構えろ!」
三つ数えた瞬間、獣が本当に右から跳んだ。備えていた男たちが体勢を保ち、致命的な一撃を防ぐ。隊長の顔に、驚きと戸惑いが浮かんだ。
「……当たった、なぜ分かったんだ」
僕は答えられなかった。分かったことは分かった。けれど、それがどういう理屈なのか、自分の中でもまだ形になっていない。
その一度だけで、また視界が元の速さに戻る。安心する暇もなく、獣は次の標的を求めて頭を巡らせていた。
自衛団の男たちは、その獣の勢いに気圧されながらも、少しずつ包囲を狭めていく。誰かが投げた石が獣の脇腹に当たり、獣は一瞬だけ大きく仰け反った。だが、傷の痛みに反応しているというより、決められた動作の一部を実行しているような、奇妙な硬さがあった。
(やっぱり変だ)
僕はその硬さを見逃さないよう、意識を獣の脚の運びだけに絞った。違和感がひとつの輪郭を持ち始める。頭の芯が、すっと冷えていくのを感じた。
「ノア、危ない!」
リゼの声で我に返る。獣の一撃が、隊列の一人を吹き飛ばした。男が地面に転がり、獣が次の標的を探すように顔を巡らせる。
「後ろに回れ! 誰か、あいつを引き剥がせ!」
隊長の声が飛ぶが、獣の動きの速さに、誰も追いつけない。松明が一本、また一本と消えていき、闇の面積が少しずつ広がっていく。周りを囲む男たちの息が、白く上がっては闇に溶けていった。
松明の炎が乱れる合間でも、僕の目は獣の動きだけを追っていた。三拍、二拍――そのリズムが、今もまだ崩れていない。
その視線が、僕の方へ向いた。
赤く濁った目が、僕を捉える。
「逃げろ!」
誰かの声が響くが、僕の足は動かなかった。獣が地を蹴り、こちらへ向かって跳んでくる。
体は震えているのに、頭の中だけが妙に冷えていた。周りの怒号も、松明の匂いも、一瞬だけ遠くに感じられる。まるで自分だけが、この光景をどこか外側から見ているような、不思議な感覚だった。
さっき気づいた"規則性"が、頭の中でひとつの答えに近づきかけていた。突進、後退、突進――このリズムが本当なら、次にこの獣がどう動くか、わかる。わかるはずだ。そんな確信に似た予感が、胸の奥でちりちりと熱を持った。
リゼが叫びながら駆け寄ろうとするが、崩れた松明の火が彼女の足元を塞ぐ。カイルも別の場所で足を取られ、動けない。
けれど、考えを言葉にする時間は与えられなかった。
獣の爪が、月明かりの下で銀色に光る。
僕の視界いっぱいに、その爪が迫ってくる。
今回はここで一度切ります。続きはまた次回に。




