疑うなというルール
翌朝、井戸の水位はわずかに戻っていた。昨日、僕が言った通りに。村にはまだ落ち着かない空気が漂っていた。
大人たちは井戸端に集まって「一時的な異変だろう」「アイオスの巡りのせいだ」と口々に言い合っていた。誰かが「原因を調べたほうがいいのでは」と言いかけたが、周りの視線に気づいて、すぐに口をつぐんでしまう。
長老の一人が「アイオスの巡りは、時々人の知恵を超えたところで乱れるものだ。やがて元に戻るさ」と続けると、人々は安心したように頷いた。その言葉に、理屈らしい根拠は何もないのに。
僕は、その"それ以上は踏み込まない"という空気こそが、いちばん気になった。
みんな、原因が知りたくないわけじゃない。ただ、それを口にすることのほうが怖いのだ。
その日はいつものように水汲みや薪割りの手伝いをして過ごした。カイルは相変わらず自衛団の話ばかりしていたし、リゼは何度か僕の顔を見て、何か言いたそうにしては、結局黙っていた。
あの光を、もう一度確かめたい。その一心で、夜、家族が寝静まった頃、僕はランプを持って一人で家を出た。
外はすでに冷えていた。雲の間から月が時々顔を見せ、乾いた風が頬を払っていく。その月は、いつもよりくっきりと大きく見えた。満ち欠けの周期が、まるで誰かが決めた暦のように狂いなく巡っている――そんな考えが一瞬頭を過ったが、すぐに夜道の静けさに押し流された。普段なら気にも留めない井戸への道が、今夜はやけに長く感じられた。誰にも見られたくない、けれど誰かに見つけてほしいような、矛盾した気持ちを抱えたまま、僕は足を進めた。
井戸端は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っている。井戸の縁に手をかけ、そっと下を覗き込む。日中は誰かの目があって近づけなかった場所を、今なら好きなだけ調べられる。
水面は月明かりを弾いて、静かに揺れていた。目を凝らすと――昨夜も見たあの模様が、今夜はもっとはっきりと浮かんでいる。
石ではない。もっと硬質で、滑らかな質感をしている。昨夜は本当に見たのか、正直……半信半疑だった。だが今、間近で見ても、井戸の壁の内側にこんなものがあるとは思えなかった。長い年月、水に沈んでいた部分だからなのか、この深さを知っている人はいないのではないかとさえ思った。
(これは……金属?)
ランプを近づけると、その部分がわずかに光を反射した。まるで、誰かがそこに何かを埋め込んだかのような、不自然な滑らかさだった。表面には、細い線のような模様が幾重にも走っている。自然にできたものとは、明らかに違う。
もっと近くで見ようと、僕は縁から身を乗り出した。
「――ノア」
背後から声をかけられて、僕は思わず肩を跳ねさせた。
振り返ると、そこにいたのは村長フェインだった。夜だというのに、しっかりと外套を着込んでいる。
「村長……」
「こんな時間に、一人で何をしているんだ」
「井戸を少し調べていて……」
フェインの表情が、一瞬だけ強く硬くなった気がした。だが、それはすぐに元の温和な顔に戻る。
「ノア。お前は昔からそういう子だったな。何にでも理由を探そうとする」
「悪いことでしょうか」
「悪いとは言わない。だが、この村では"疑わないこと"が、みんなを守ってきたんだ」
フェインの言葉に、胸の奥で、棘がぴりっと疼いた。いつもこの痛みが僕の口を先に開かせる。
「でも、実際に井戸の水位は下がっています。それも、今まで一度もない下がり方です」
僕が思わずそう口にした途端、フェインの目がとても静かな光を帯びた。怒っていないのに、その目の奥で何かが淡々と処理を進めているように見えた。
フェインはゆっくりと井戸に近づき、僕と同じように縁に手をかけた。
「井戸のことも、星の巡りだろうと長老たちが言うなら、それを信じればいい。疑うことに意味はないんだよ、ノア。この村の平穏は、そうやって保たれてきた」
その口調は静かだったが、有無を言わせない強さがあった。これが、この村の"ルール"なのだと、僕は肌で理解した。誰も声に出して決めたわけではないのに、村中の誰もがそれを守っている。
「……はい」
そう答えるしかなかった。フェインは満足そうに頷き、僕を家まで送ると言って歩き出す。僕はもう一度だけ、井戸の底を見た。あの金属質の光は、もう見えなくなっていた。まるで、見られてはいけないものだったかのように。
家路の途中、フェインと別れたところで、リゼが暗がりから出てきた。
「ノア。やっぱりまた一人で調べてたんだね」
「見てたの?」
「村長フェインが向かうところが見えたから、心配で……。ねえ、何か見つけた?」
僕は一瞬迷ったが、リゼにだけは話そうと決めた。
「井戸の底に、金属みたいなものが見えたんだ。石じゃない、何か作られたものみたいな」
リゼは驚いた顔をしたが、すぐに真剣な表情になった。
「それは他の人には言わないほうがいいかも。村長の顔、見た? あんな顔、初めて見た」
「うん……。なんだか怖いくらい真剣だった」
「ノアはどうして、そこまで踏み込みたがるの? 村長フェインに声をかけられても、全然怖がってなかったよね」
「怖くないわけじゃないよ。でも、知らないことを知らないままにしておくほうが、僕には難しいんだ」
リゼは少し黙って、それから小さく頷いた。
「ノアは、いつもそうだよね。体の方が先に動いちゃってる」
「自分でも不思議なんだ。頭では引けないと思っていても、足の方が先に前へ出てしまう」
「わたしね、前から思ってたことがあるの。大人たちって、いつも同じことしか言わないなって。"疑うな"とか、"信じてれば幸せになれる"とか。同じ言葉を、まるで決められた台詞みたいに、みんなが繰り返してる」
リゼが自分からそんなことを言うのは、初めてだった。僕は少し驚いて彼女を見た。
「……リゼも、そう思ってたの?」
「うん。でも、言葉にしたことなかった。ノアがいなかったら、たぶんずっと気づかないままだったと思う」
僕らは黙って夜道を歩いた。何か大きなものに触れてしまったような、落ち着かない感覚が胸に残っていた。それでも、リゼが同じことに気づいていたと知れたことだけは、いつもより少しだけ肩の力を抜かせてくれた。この子に話したときだけ、胸の中の何かが少し白くなる気がする。
家の前でリゼと別れ、僕は一人、寝室の窓から夜空を見上げた。
そのとき――
境の柵のある方角から、低く長い、聞いたことのない音が響いた。
獣の声でも、風の音でもない。まるで、何かが柵に体をこすりつけているような、不気味な音だった。
僕は思わず窓に手をかけ、闇の中を見つめる。
音は一度きりでは終わらず、二度、三度と、間隔を狭めながら続いていく。
背筋に冷たいものが走った。
(何か、来る)
不穏な音が出てくる回でした。次回、少し動きます。




