疑ってはいけない朝
何百年も涸れたことのない境ノ村の井戸が、その朝、静かに底を見せた。
「境ノ村がある限り、水は涸れない。そういうものだからね」
井戸端で誰かがそう言うと、子供も老人も、疑わない顔で頷く。
「うわ、水が……!」
女の一人が声を上げた。桶を沈める縄が、いつもよりずっと長く伸びていく。「底が見える」と誰かが呟いた瞬間、集まった村人たちの間にざわめきが走った。
「こんなの、初めて見たわ」「豊穣祭りの前だぞ、縁起が悪い」――口々に上がる声の中、行商人が足を止め、「灯の谷の北側でも水路が涸れかけてる村があるらしい」と眉を寄せていた。
長老が井戸端に駆けつけ、縁に手をかけて一度覗き込むと、すぐに顔を上げた。
「星の巡りが少し乱れているだけだろう。心配することはない」
その一言で、ざわめきはすっと収まった。理由が示されたからではなく、理由を求めなくていいと言われたことに、人々は安心していた。
僕――ノア・カルヴィンだけが、その速さに引っかかりを覚える。胸の奥で、棘がぴりっと疼いた。この棘は、僕にしか聞こえない小さな警報だ。
「おーい、ノア! すごい下がり方だったな、びっくりした!」
幼馴染のカイル・ドレイクが、人混みをかき分けてやってきた。
「うん……。でも、長老の言葉だけで、みんなもう納得してる」
「そりゃ、長老がそう言うなら、そうなんだろ。信じてりゃいいんだよ、こういうのは」
悪気のない声が、僕の胸に小さな刺のように残る。
見上げた空で、太陽の位置がいつもと少し違う気がした。気のせいだと思おうとした。でも――目を離しても、その違和感だけが残った。
人が少し減った井戸端で、僕はもう一度縁に手をかけ、底を覗き込んだ。
水面のずっと上、今はもう届かない高さに、濡れた跡がくっきりと残っている。星の巡りが乱れるだけなら、もっとゆっくり下がるはずだ。これは今朝のうちに一気に落ちた跡だった。縄に残る泥もまだ湿ったまま、急いた擦れ方をしている。それでも、さっき覗いたときより水面の揺れは小さい。落ちる勢いそのものは、もう緩んでいる。
(行商人も言ってた。灯の谷の北側でも水路が涸れかけてる村があるって。あの人は、驚いていたんじゃなく、心当たりがある顔をしていた)
境ノ村だけの話じゃない。同じ地下の水の道が、あちこちで一度に姿を変えているなら――涸れているんじゃなくて、流れる先が変わっただけだ。だとしたら、水は新しい道に落ち着いた分だけ、また戻ってくる。
そこへ、名主のオズウィンが険しい顔で井戸端に姿を見せた。
「このままでは豊穣祭りに水が足りん。念のため、明日から総出で北の川まで水を汲みに行ってもらう」
集まっていた大人たちが、重い顔で頷き始める。祭りを数日後に控えたこの時期に、丸一日分の人手を持っていかれる――それがどれほどの痛手か、誰もが分かっていた。
喉の奥で、また疑い病と言われる予感が声を止めようとした。けれど、これは確かめられることだ。当たるか外れるか、誰にでも分かる。
「――行かなくて大丈夫です。夕方までには、水位は戻り始めます」
井戸端の空気が止まった。名主も、大人たちも、一斉に僕を見る。
「星の巡りが乱れてるだけなら、こんなに急に下がったりしません。水の道がどこかで変わったんです。もう落ちる勢いは緩んでます。灯の谷の他の村でも同じことが起きてるなら、同じくらいの速さで新しい道に水が落ち着くはずだから」
「外れたら、僕のせいにしてください。それでも、明日水を汲みに行くよりは、待つ方がいいと思います」
「はっ、適当なこと言うなよ。当たるわけないだろ、疑い病」
名主の息子ダレン・オズウィンが、大人ぶった足取りで前に出て、鼻を鳴らした。
「別に大げさにしてるつもりはないよ」
リゼ・ヴァンスが小走りに駆け寄ってきた。
「わたしはノアがそういうこと考えてるの、嫌いじゃないけどな」
名主は僕をじっと見て、それから短く息を吐いた。
「――分かった。今日一日だけ待つ。それで戻らなければ、明日は問答無用で川へ向かう」
村人たちのざわめきが、期待と不安の間で揺れながら静かになっていった。誰も僕の言葉を丸ごと信じたわけじゃない。それでも、一日だけの猶予を僕は確かに勝ち取った。
昼過ぎ、家に戻ると、祖母のセルマが台所で野菜を刻んでいた。
「ノア、お帰り。井戸の様子はどうだった?」
「水位が下がってた。長老は星の巡りのせいだって言ってる。僕は違うと思うけど」
「それでいいのよ。疑うことなんかせず、ただ受け取っていればいい。そういうものだからね」
セルマは、まるで自分に言い聞かせるようにそう繰り返した。六歳のころ、一度だけ、その声を外に出したことがある。近所のおばさんへの何気ない一言が、「カルヴィンの子は人の親切まで疑うのか」という声に変わった日から、僕はこの声を誰にも聞かせてはいけないものだと決めていた。
「セルマ、僕の両親は本当に病気だったの?」
今日はなんとなく聞いてみたくなった。セルマは一瞬手を止めて、それからゆっくりと僕の方を向いた。
「そうよ。もう昔のことだから、忘れておしまいなさい」
その声は優しかったけれど、いつもより少しだけ低かった。セルマはまた包丁を動かし始めたけれど、その手つきは、さっきよりもどこか硬い気がした。
午後になっても、井戸端には人の目が絶えなかった。誰も水汲みの支度を始めようとはしなかったが、誰も僕を本当に信じているわけでもなかった。時々様子を見に来る村人の視線には、期待と苛立ちが半分ずつ混じっていた。当たらなかったら、明日は僕のせいで丸一日が潰れる。名主に「僕のせいにしてください」と言った以上、後戻りはできない。そう思うと、胸の奥がずっと落ち着かなかった。
僕はもう一度井戸端に向かった。
自衛団の男たちが明日の川行きに備えて荷車に縄を積んでいる。
僕は縁に手をかけ、朝と同じように縄を下ろした。――朝よりも明らかに早く水面に触れた。
「もう戻り始めてます」
声をかけると、縄を巻いていた男が手を止めた。
「……本当か」
「縄の長さで分かります。朝より短くて済みました」
男は縁を覗き込み、荷車の縄を降ろす手を止めた。
小さな変化だ。それでも、僕の一言で手が止まった。
夕方、もう一度井戸端に足を向けると、まだ数人が残っていた。
「――ほんとだ、戻ってきてる」
女の一人が縄を引き上げながら声を上げた。桶が朝よりずっと早く水に触れている。井戸を覗き込んだ男が驚いた顔でこちらを見た。
「おい、ノアの言った通りじゃないか」「夕方までに戻るって言ってたな」
人混みの向こうから、カイルが駆けてきた。
「マジか、ノア、当たったのか! すげえじゃん!」
カイルが僕の背中を勢いよく叩いた。少し痛かったけれど、悪い気はしなかった。周りにいた子供たちの、僕を見る目も少し変わっていた。
少し離れた場所で、リゼが何も言わずただ嬉しそうに笑っていた。
名主が井戸を覗き込み、それから僕を一瞥した。険しかった顔から力は抜けたが、その目にはまだ何かを認めきれない硬さが残っていた。
「……戻ったなら、それでいい。明日の分は、取りやめだ」
それだけ言うと、名主は僕の方を見ることなく足早に去っていった。さっきまでの重い空気は、もうどこにもなかった。
モナが桶を抱えたまま駆けてきて、僕の手を軽く握った。
「本当にありがとう、ノア。あんたのおかげで、明日はゆっくり祭りの支度ができる」
そう言うと、ほっとした顔で井戸端へ戻っていった。
カイルがダレンに気づいて声を上げた。
「ダレン、さっき『当たるわけない』って言ってたよな」
少し離れた場所に立っていたダレンが僕を一瞥した。何か言おうとして、結局何も言わずに背を向け、去っていった。周りの村人たちも、それ以上ダレンを笑ったりはしなかったが、誰もが今の光景を見ていた。
それだけで十分だった。誰かに正しかったと認めてもらう。そんな経験は、僕にはこれまでほとんどなかった。疑い病と呼ばれ続けてきたこの目が、今日だけは誰かの助けになった。
(疑うことが、初めて誰かの役に立った)
そう思うと、胸の奥が今までとは違う形で温かくなった。胸の奥の棘は、今日だけは静かだった。
人々が散っていくのを見送ってから、僕は一人でもう一度縁に手をかけた。
昼間の喧騒はもう遠く、井戸端に人影はほとんどなかった。橙色に染まった空の下、水面は静かに揺れている。僕の予測どおり、水位はわずかに上がっていたけれど、まだ底の壁は見えていた。
目を凝らすと、その壁の奥に硬質な光がちらりと反射した。石じゃない、もっと滑らかな何か。細い線のような模様が幾重にも走っている。ただの傷や汚れではない、規則的な並びのようにも見えた。水面が揺れるたび、その光は現れたり消えたりする。
見間違いじゃない。確かに見た。何百年も涸れないと言われてきたこの井戸の底に、誰かが埋め込んだとしか思えない、あの模様を。心臓がいつもより速く音を立てていた。この村がある限り水は涸れない――そう教え込まれてきた言葉の裏に、何が隠れているのか、僕はまだ何も知らない。
(あれは何だったんだろう)
水の道が変わったことは、たぶん当たっていた。でも、あの光の説明にはならない。星の巡りでも、水の道でもない――もっと別の何かが、この井戸の底にはある。誰にも言えない。言ったところで、また疑い病の一言で終わりにされるだけだ。
暗くなっていく水面の奥で、光の残像がまだ消えずに揺れている気がした。疑うことは時々誰かを傷つける。けれど今日は、それが確かに誰かの役に立った。だったら、この光の正体も疑ってみる価値がある。
「――確かめよう」
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