判定から九十日、その数字を言い当てる
「巡回の記録なら、これだ」
村長フェインが、そう言って分厚い帳面を差し出した。名主の家の応接間、机の上には、灯の谷の簡単な地図も広げられている。トビンの面談があった日の翌朝、僕はこれまで確かめてきた欠片を一度整理したくて、フェインに時間をもらっていた。記録を見せてもらえることに、もう驚かなくなっている自分に、僕はふと気づいた。
「ありがとうございます」
「何を調べたいのか、聞いてもいいものかな」
フェインの問いに、僕は少し言葉を選んだ。
「オーレンさんの巡回のことです。毎年、同じ順番で回ってるんですよね」
「ああ。灯前村、瀬戸口、外れ里、それから境ノ村。この順で、一年かけて巡る。境ノ村が、いつも最後だ」
僕は、地図に描かれた四つの丸印を目で辿った。灯前村から境ノ村まで線を引くように、谷の入り口から奥へと一本の道が続いている。
「なぜうちが最後なんですか」
「さあ。昔からの決まりだとしか、私も聞いていない」
フェインはそう言って地図の上、境ノ村の位置を指でなぞった。谷の一番奥、柵にもっとも近い場所に、その名前がある。指先が、しばらくその一点に留まっていた。
紙をめくる音だけが、しばらく部屋の中に響いた。フェインは、机の向かいで腕を組んだまま、僕たちの様子を静かに見ていた。
「リゼ、これ見て」
リゼが、机の反対側から僕の指の先を覗き込んだ。
「五年前、外れ里で"儀式異例一件"と記録された日付は、六月の十日」
僕は、その隣のページを指でなぞった。
「次にその村へ巡回が来たのは、九月の八日」
「三年前、灯前村の異例は、二月の五日」
リゼが、別の帳面を開いてページを指した。
「次の巡回は……五月の六日」
僕は、その二つの日付を紙に書き出したまま、しばらく黙っていた。間隔で見れば、六月から九月、二月から五月――季節も、月の並びも違う。比率で捉えようとすると、何も揃わない。
「間隔の長さで見るより、日付そのものを数えてみようよ」
リゼが、そう言って自分の指を紙の上に置いた。二人で、一日ずつ声に出して数えていく。六月十日から、七月、八月、九月の八日まで。二月五日から、三月、四月、五月の六日まで。
数え終えたとき、僕は思わず声を止めた。
「……両方、九十日」
「うん。ぴったり、九十日」
僕は、その数字をもう一度確かめた。外れ里は谷の入り口に近く、灯前村はそこから離れた別の位置にある。巡回の順番の中で、二つの村が置かれている時期はまるで違う。それなのに、判定の日から数えた日数だけが、寸分違わず揃っている。前から、あの人の巡回には、何か引っかかるものがあった。巡回の間隔がばらばらだと気づいたときから、ずっと引っかかっていた違和感が、今、初めて具体的な形を持った気がした。
「巡回の順番も、場所も、関係ないってこと?」
僕がそう呟くと、フェインが帳面を覗き込んだまま口を開いた。
「そういえば、この二件の記録だけ、"巡回"じゃなく"経過確認"という字が使われてるな」
僕は、フェインの指の先を追った。他のページはすべて「巡回」の一語で統一されている。だが、この二件だけ、違う言葉が使われていた。数字を数えなくても、その表記の違いだけで、この二つが特別な訪問だったことが分かる。
「巡回の順番も、村の場所も、関係ない。判定があった日から、いつも九十日。……これは、村を巡る周期の話じゃない。判定そのものに、決まった期日が組み込まれてるんだ」
頭の奥で、棘が一度、冷たく疼いた。これまでの違和感が、初めて一つの仕組みとして像を結んだ重さだった。
「そんなことに、気づいたのか」
フェインが、少し驚いたような顔をした。
「偶然かもしれません。でも、二回とも、同じ九十日なら――」
「偶然にしては、正確すぎるな」
フェインは、そう言って帳面をもう一度手に取った。何かを考え込むような表情だったが、それ以上は何も言わなかった。しばらくして、彼は帳面を閉じ、机の端に静かに置いた。
「これ以上は、私も知らないことだ。だが……気になるなら、調べてみるのは止めない」
その言い方には、協力とも、距離を置いた見守りとも取れる微妙な響きがあった。フェインの目は、地図の上の境ノ村をしばらく見つめたままだった。
僕は、地図の上の境ノ村をもう一度見た。四つの集落の中で、いつも最後に、いつも一番深い場所で巡回を受ける村。トビンの面談の異様な長さと、この九十日という数字が、どこかで繋がっている気がした。地図の上の細い道が、そのまままだ見えない何かの通り道のように見えてくる。
外に出ると、日はまだ高く、村はいつもと変わらない静かさを保っていた。だが、僕の中には、これまでとは少し違う感覚が生まれていた。
これまでの違和感は、いつも「何かがおかしい」という、輪郭のはっきりしたものだった。だが今回は、それとは違う。オーレンの丁寧な物言い、事務的な優しさ――その表面そのものが、何かを覆うための形なのかもしれない、という感覚。見た目の裏に別の顔がある、というような。
「ノア?」
リゼが、僕の顔を覗き込んだ。
「なんか変な感じ」
「変な感じ?」
「うん。今までとは、違う種類の違和感。オーレンさんの優しさが、優しさそのものじゃなくて、何かの上に被せられたものに見える」
僕は自分の言葉をうまく説明できずに、そのまま呟いた。まだ名前のつけられない、新しい種類の感覚だった。今までの違和感は、いつも何かを見つけた瞬間に輪郭を持って現れた。だが今回のものは、輪郭よりも先に、肌にじわりと染み込んでくるような質感を持っていた。
「見せかけの、裏側ってこと?」
リゼが、そう言葉を継いだ。
「うん……多分そう」
僕は、その言葉を口の中でもう一度なぞってみた。見せかけの裏側。それが、これから何に繋がっていくのか、今はまだ分からない。だが、確かな予感として、その言葉は胸の中に静かに根を張っていた。
帳面を返しに行く道の途中、リゼがふと足を止めた。
「トビンにも、今分かったこと、伝えた方がいいよね」
「うん。でも、まだ確証はないから、"気になることが見つかった"くらいで伝えようと思う」
「そうだね。あまり驚かせたくないし」
僕たちは、そう言い合いながら境ノ村の家々の間を並んで歩いた。夕暮れの色に染まった屋根が、いつもより少しだけ静かに見えた。
「巡回の順番、灯前村、瀬戸口、外れ里、境ノ村――四つとも、名前は知ってるけど、行ったことは一度もないよね」
リゼの言葉に、僕は頷いた。
「うん。境ノ村から出たことがある人、村にどれくらいいるんだろう」
「ほとんどいないと思う。行商の人たちくらいじゃない?」
僕は、その答えに少し驚いた。当たり前のように受け入れていた事実が、口に出してみると思っていたより奇妙に響いた。谷の外を知る者が、ほとんどいない村。それ自体が、静かな異常に思えてくる。
「境ノ村が、いつも最後で、いつも一番奥……なんだか、そのこと自体にも意味がある気がしてきた」
僕がそう言うと、リゼは少し考えるような顔をした。
「意味、って?」
「分からない。ただの直感」
僕たちは、そのまま黙ってしばらく歩いた。夕方の風が、少し冷たくなってきている。この村の一番奥という位置が、単なる地理の巡り合わせなのか、それとも誰かが意図して選んだ場所なのか――今の僕には、まだ判断がつかなかった。
次の巡回まで、あとひと月足らず。九十日というその意味を、僕の方から先に読み解いておく。
規則性が見えてきた回でした。次回もお付き合いいただけると幸いです。




