なぜ、四十年前と同じ文面の手紙が届くのか
「これ見て」
トビンが、僕の家の戸を開けるなりそう言って一枚の紙を差し出した。息が、まだ整っていない。よほど急いで来たのだろう。額には汗が浮き、肩が小さく上下していた。
「どうしたの、そんなに急いで」
「うちに……手紙が来た」
紙には、几帳面な字で短い文章が並んでいた。
「経過観察のため、十日後、貴家を訪問する――調律士オーレン」
僕は、それを二度読み直した。文字は一字一字が同じ大きさで並び、まるで型に沿って書かれたかのように整っていた。定規で引いたような、癖のない筆致だった。
「巡回の知らせとは、別?」
「うん。掲示板のとは、違う。うちに、直接届いた」
トビンの声は、いつもより硬かった。僕は、その紙をもう一度手に取った。宛先は、村ではなく、トビンの家だけ。文面も、村全体への告知とは違う個人宛の言い回しだった。紙の質も、掲示板に貼られる告知より、幾分きめが細かい。
リゼが、庭先から駆けてきて僕の手元を覗き込む。
「なにそれ」
「トビンの家に、オーレンさんから、直接の手紙」
「直接?」
リゼの声が、一段高くなった。
「うん。十日後に、家まで来るって。掲示板の巡回とは、別の話みたい」
僕たちは、三人で顔を見合わせた。誰も、すぐには言葉が出なかった。庭先の風が、紙の端をかすかに揺らした。
「今までは、詰所での面談だけだったよね」
僕がそう言うと、トビンは小さく頷いた。
「うん。だから、母さんも、驚いてた。なんで、うちだけ家まで来るのかって」
「他の家にも、こういう手紙、来たことあるの?」
「聞いたことない。少なくとも、うちの周りでは」
僕の中で、これまでの断片がまた少しだけ形を変えた。詰所での面談の長さ、記録に残る"儀式異例"の一件と、判定からきっちり九十日後に来るという"経過確認"。そこに、今度は「家への訪問」というまた一段踏み込んだ形の接触が加わる。一つひとつは些細な違いに見えて、並べるたびに、その差の意味が重くなっていく気がした。
「フェインさんに、聞いてみよう」
「うん」
僕たちは、そのまま名主の家へ向かった。道の途中、トビンは何度もその紙を握った手を開いたり閉じたりしていた。僕は、その様子をあえて何も言わずに見ていた。
フェインは、僕たちの話を聞くと、少し眉を寄せた。
「家への訪問……そこまでは、私も聞いたことがない」
「昔の記録には、残ってませんか」
「探してみよう」
フェインは、以前見せてくれた帳面よりさらに古い帳面を書棚の奥から取り出した。埃をかぶった表紙を、袖で軽く拭う。乾いた紙の匂いが、部屋にふわりと広がった。
「これは、私の父の代の記録だ。もう、四十年近く前のものになる」
紙は黄ばみ、字は薄れていたが、丁寧に保存されていた。僕は、その一枚一枚を慎重に確かめていく。指先が触れるたびに、紙が僅かに軋む音がした。何十年も前の誰かが書いた字を、今の僕たちが読んでいる――その事実だけで、部屋の空気が少し変わった気がした。
「これ……」
リゼが、ある一行を指で示した。彼女の指は、その場所から動かずにじっと押さえられていた。
「"個別訪問実施、対象一名――経過観察のため、判定より二十日後"」
その一文を読み上げるリゼの声を聞きながら、僕は懐から、トビンの家に届いた手紙をもう一度取り出した。二枚を並べて置く。
「"経過観察のため、十日後、貴家を訪問する"――」
日付の数字は違う。だが、言葉の選び方が、驚くほど似ていた。「経過観察のため」という書き出し、句点のない詰まった書き方、感情の一切が削ぎ落とされた言い回し。四十年の隔たりがあるはずなのに、まるで同じ手が同じ型に沿って書いたかのようだった。
「四十年前も、今も、同じ言葉が使われてる……」
僕の声は、自分でも思っていたより低くなっていた。
「あの人が生まれる前から、この手順があったのかもしれない」
「その後は?」
「その後の記録が、ない。次のページから、別の年の話になってる」
僕は、その空白をじっと見つめた。
「ここ、糸で綴じ直してある」
リゼが、ページの継ぎ目を指で確かめながら言った。
「何かが、抜き取られたみたいに」
僕は、その継ぎ目に触れてみた。他のページより、糸の通り方が僅かに粗い。まるで、一度別のものが挟まっていたその場所を、後から誰かが縫い直したかのようだった。
フェインは、何も言わず、帳面を静かに閉じた。その音は、思ったより大きく部屋の中に響いた。彼が何も語らないという事実そのものが、これまでのどんな言葉よりもはっきりとした答えのように感じられた。
「フェインさん、これって……」
僕がそう言いかけたとき、フェインは帳面を書棚に戻す手を止めなかった。
「四十年前、誰かが、この手順に抗おうとしたのかもしれません。その記録が消された」
僕がそう言うと、フェインは、僅かに肩を落としただけだった。何も、肯定も否定もしなかった。
「これは、もう無ノ子だけの話じゃない」
僕の声は、自分でも驚くくらい静かだった。
「四十年前からずっと、誰かが、この村を超えたところで、この手順を決めてる」
トビンは、視線を落としたまま、紙を握る手だけを動かしていた。
「……ノア、これ以上調べるの、本当に大丈夫?」
リゼが、そこで初めて僕の方を見た。その目には、これまでの同調とは違う、はっきりとした懸念があった。
「何かに抗った人が記録まで消されてるってことだよね」
「うん。だから、慎重にやる。でも、今止まったら、トビンのことも間に合わなくなる」
僕がそう答えると、リゼは何も言わずに、ただ僕の顔を見つめ続けた。その視線には、これまでのような同意ではなく、心配と信頼が半分ずつ混ざっているように見えた。
家への帰り道、僕は何度も頭の中でその形を並べ直した。無ノ子の判定。それから、いつもより長い面談。次に、判定から九十日後の"経過確認"。そして今回、初めて分かった、家への個別訪問。一つ一つの間隔を数えるたびに、そこに横たわる時間の長さが、まるで手順表のように僕の中で並び立っていった。
十日。それだけの時間の中で、僕はこの手順の正体を、確かめておかなければならなかった。
一つ一つは、別の出来事のように見える。だが、並べてみれば、同じ手順を何度も繰り返しているようにしか見えなかった。夕暮れの道端に並ぶ家々の灯りが、いつもと同じ温かさで灯っていることが、むしろ落ち着かなかった。
「あの人は、本当に……体調を見に来てるだけ、なのかな」
リゼが、ぽつりと言った。
「分からない。でも」
僕は、言葉を選んだ。何かが、輪郭に近づいている。だが、その中心にあるものが何なのか、僕には言い当てられなかった。優しい笑顔、事務的な言葉遣い、丁寧な物腰――そのどれもが本当は別の意味を持っているのかもしれない。そこまでは分かる。だが、その「別の意味」の形が、まだ僕の中で像を結ばない。
「十日後」
僕は、それだけ呟いた。
トビンの家に、あの人が来るまでの十日間。その間に、僕はこの違和感の正体をどうしても見極めておきたかった。
家に着くと、セルマが夕飯の支度をしながら、僕の顔をちらりと見た。鍋から立つ蒸気が、狭い台所をほんのり湿らせていた。
「今日は、随分、難しい顔をしてるね」
「うん、ちょっと……調べてることがあって」
「トビンの子のこと?」
僕は、驚いて顔を上げた。
「なんで分かるの」
「村は狭いからね。あの子の家に、変わった手紙が届いたって、もう噂になってる」
セルマは、それ以上は何も言わず鍋をかき混ぜる手を止めなかった。だが、その横顔にほんの一瞬、いつもとは違う色が差したのを、僕は見逃さなかった。それは、驚きというよりも、何かを思い出しているような遠い目だった。
「セルマも、昔、似たようなこと聞いたことある?」
「さあ。年を取ると、いろんなことが混ざって思い出せなくなるものだよ」
その答え方は、いつものすっと躱すような言い方だった。だが今夜は、その躱し方の中に微かな重さがあるように感じられた。
その夜、僕はなかなか寝つけなかった。天井の木目をぼんやりと目で追いながら、十日後、あの人が何をするのか、何を見て何を確かめようとするのか――まだ答えの出ない問いを、何度も頭の中で繰り返した。窓の外では、虫の声が途切れることなく続き、村はいつもと同じ静けさを保っていた。だが、その静けさの底に、何かが確かに動いている気配だけは拭い去れなかった。
新しい手がかりが見つかった回でした。次回、いよいよその日が来ます。




