消えた子と残った子、違いは一つだけだった
僕たちは、村の外れに住む老女ハンナの家を訪ねた。トビンの祖父が漏らした「お前だけじゃない」という言葉の意味を、少しでも掘り下げたかった。トビンの祖父本人に直接聞くのは、まだ早いと二人で決めていた。まずは、村で一番長く生きている人から話を集めることにした。
ハンナの家は、他の家より少し傾いた屋根と庭一面に干された薬草の匂いで、すぐに分かる。戸を叩くと、しばらくして、しわがれた声が返ってきた。長い年月をこの谷でずっと過ごしてきた人だけが持つ、独特の落ち着きが、その声には滲んでいた。
「静養、ねえ……」
ハンナは、僕たちの話を聞くと、少し驚いたように目を丸くした。村の中でも、一番長く生きているうちの一人だ。編み物の手を止め、椅子に座り直す。
「そんな昔のことを、よく覚えてたね、記録帳に」
「名前だけ、ちゃんと残ってました。でも、その後のことは、何も」
僕がそう言うと、ハンナはしばらく黙って窓の外を見た。
「……マレイっていう子がいたよ。私が、まだ若い頃。目覚めの儀で、何も出なかった子」
その名前は、僕が見た三つの空白のうちの一つと一致していた。マレイ――記録帳の隅に几帳面な字で書かれていた、あの名前だ。
「その人、どうなったんですか」
「静養のために、隣の集落に行ったって聞いた。でも」
ハンナは、そこで一度口を閉じた。編み針を指の間で、何度か回す。窓から差し込む午後の光が、その手の動きをゆっくりと照らしていた。
「マレイの家は、父親がいなかった。母親も、村で声を上げられる人じゃなかったからね」
「それが関係あるんですか」
僕がそう聞くと、ハンナは編み針を止めたまま、しばらく黙っていた。
「力のある家なら、少しは違ったんだろうけどね。うちの隣にも、昔、無ノ子の子がいたけど、あの子の家は名主様の遠い親戚筋でね……最後まで、村にいたよ。何も出なかった年月なんて、なかったみたいに」
その一言に、僕は思わず息を止めた。無ノ子が、みな同じように消えるわけではない。誰かが、庇っていれば、留まれる者もいる。それは、僕が記録帳の空白から読み取っていたものとは、まるで違う形の事実だった。
「マレイさんは……」
「庇う者がいなかった。それだけの違いだと、私は思ってるよ」
窓の外を風が渡り、庭の薬草の匂いが、僅かに濃くなった気がした。名前は残っているのに、続きがない。それは、無ノ子の誰にでも訪れる運命ではなく、庇う者の有無によって分かれる、選別された運命だったのだ。
「マレイさんの前にも、いたんですか」
リゼが、そう聞くとハンナは思い出すように少し眉をひそめた。
「もう二人くらいは、いた気がするね。私の記憶が正しければ。でも、それより前は私も、はっきり覚えてない」
「その人たちも、庇う人が、いなかった?」
「そうだね。どちらも、家に力のある方じゃなかった。……そういう話は、村ではあまり口にしないもんだから、記憶も薄くなる」
ハンナは、そう言ってまた編み物に手を戻した。指の動きは、いつもと変わらないように見えたが、その視線はしばらく窓の外の一点から動かなかった。何かを、遠い記憶の中で確かめているようだった。
「あんたたちは、なんでそんなこと、気にするんだい」
「気になる人が、いるので」
僕がそう答えると、ハンナは、僅かに笑った。
「トビンの子だろう。あの子、可哀想だからね。優しいことだ」
僕はそれには何も言わず、小さく頭を下げた。立ち上がるとき、ハンナが、もう一言付け加えた。
「昔のことを、あまり掘りすぎるもんじゃないよ。掘ったところに、何もなければいいけど」
その言葉には、忠告というより、どこか祈るような響きがあった。編み針を動かす手が、その一言のあとだけ僅かに震えているように見えた。
家を出ると、外はもう夕方に近づいていた。庭の薬草が、風にゆっくり揺れている。リゼが、隣で腕を組む。
「資料室で見た三つの空白、どれも"立会"の記載がなかった」
リゼが、そう言って足を止めた。
「あの記帳の欄が、マレイさんの話と繋がる」
「うん。庇う者がいたかどうかが、記録にも残ってたってことだよね」
僕がそう応じると、リゼは小さく頷いた。彼女が資料室の記憶から自分で結びつけたその一言は、記号の一致ではなく、確かな物証に基づいていた。
「誰かが、ちゃんと守ってあげてたら……違ったのかな」
リゼが、ぽつりと呟いた。
僕は、その言葉に頷きながら、ふと別の顔を思い出していた。トビンの家には、父はいない。母一人で、村での立場も声も、決して強くはない。あの子にも、実質、庇う者はいないのだ。
僕の胸の底で、棘が一度、重く疼いた。
「トビンも……」
僕は、それだけ呟いた。リゼが、その先を察したように目を伏せる。二人の間に、それ以上の言葉は必要なかった。
家に着くと、祖母セルマが、夕飯の支度をしながら僕の顔をちらりと見た。
「今日は、どこに行ってたの」
「ハンナさんのところ。ちょっと昔の話を聞きに」
「昔の話……」
セルマの手が、一瞬だけ止まった。それから、何事もなかったように、また鍋をかき混ぜ始める。
「あまり、昔のことを掘るもんじゃないよ。忘れた方がいいことも、村には、たくさんあるんだから」
セルマは、そこでふと何かを思い出したように言葉を継いだ。
「それに、お前の両親も……」
だが、その先は続かなかった。セルマは口を噤み、鍋をかき混ぜる手だけを少し速めた。
「お母さんが、何?」
「……なんでもないよ。年を取ると、口が滑る」
セルマは、そう言って鍋の蓋を閉じた。湯気が、狭い台所にほんのり広がる。その横顔には、いつもの躱すような表情の奥に、隠しきれない硬さが残っていた。
その言い方は、ハンナの忠告と、驚くほど似ていた。僕は、それには何も答えず、ただ静かに頷いた。夕飯の匂いが漂う中で、僕はこれから訪れるオーレンの巡回のことを、もう一度頭の中で組み立て始めていた。マレイという名前、記録の空白――それぞれは、まだ別々の欠片のままだったが、いつか一つの形に収まる日が来る――そんな確信だけが静かに強くなっていた。
夕飯を終えたあと、僕はリゼと待ち合わせて、水汲みのついでにもう一度村の中心部まで足を延ばした。村の入り口の掲示板の前に、人が集まっているのが見えた。夕方の人通りにしては、少し多めだった。
「何かあったのかな」
近づくと、掲示板には簡潔な貼り紙が貼られていた。
「調律士オーレン様、来月初旬に巡回予定」
その文字を見た瞬間、頭の中でこれまでの断片が、また一つ新しい向きを取った。トビンの面談。三十年前の記録。そして、もうすぐやってくる、あの人の巡回。
「もうすぐ、来るんだね」
リゼが、貼り紙を見ながらそう呟いた。
「うん」
僕は、その貼り紙から目を離さずに答えた。次に来るオーレンの巡回を、これまでとは違う目で見ることになる――そんな予感が静かに、確かに僕の中に居場所を作っていた。掲示板の紙は、風に少しだけあおられ、端がぱたぱたと小さく音を立てていた。
「今度は、ちゃんと見ておきたい」
「わたしも」
リゼが、隣で静かにそう言った。二人の間に、何かを見届けるという共通の目的が、確かに立ち上がっていた。夕暮れの空に、一番星が、まだ薄く見え始めていた。
証言と記録が繋がった回でした。ここからオーレンさんの巡回に注目です。




