「静養」の一語で消された三人を掘り出す
翌日、僕とリゼは、村の集会所の資料室に足を運んだ。普段は名主や自衛団の記録がしまわれている場所で、子供が立ち入ることは、あまり褒められた行為ではない。
資料室は、集会所の裏手にある小さな部屋で、いつも鍵がかかっている。今日はフェインが用事で名主の家を空けていたおかげで、鍵番の老人に「以前も見せてもらった記録の続きを」と頼み込み、なんとか中に入れてもらえた。
「本当に大丈夫かな」
リゼが、小声で言った。
「大丈夫。氾濫の夜、名主様が『これからも聞かせてほしい』って言ってくれてから、村の記録に触れることが、僕の仕事の延長みたいに扱われるようになったんだ」
「そういう言い方、ずるいと思う」
「うん。分かってる」
鍵番の老人は、僕たちを部屋の中に入れてから、扉の外で何かを見張るように腰を下ろした。何のために来たのかまでは、深く聞いてこなかった。
僕たちは、埃をかぶった木箱の中から、古い記録帳を一冊ずつ引き出していった。年代ごとに綴られたそれらは、ほとんどが天候や収穫、獣の被害についての記述だった。表紙の革は乾いて反り、開くたびに小さな埃が舞う。
三十年前の氾濫の記録は、既に一度目を通していた。今日は、それより前――さらに古い年代の帳簿を探す。
「あった」
リゼが、一冊の帳簿の表紙を指差した。年号は、五十年以上前のものだった。
僕は、その帳簿を開いた。目覚めの儀の記録が、几帳面な字で並んでいる。誰が、何のスキルを得たか。簡潔に、一行ずつ。
「ここ、見て」
リゼが、あるページで手を止めた。名前の欄の隣、スキルの欄に、何も書かれていない行があった。代わりに、「静養のため、しばらく村を離れる」という一文だけが添えられている。
「これ……」
「トビンと、同じだよね」
僕は、その行を何度も読み返した。名前は、記されている。だが、その後の記述がない。
さらにページをめくると、似たような行が、もう二つ見つかった。いずれも、名前とスキルの欄に空白があり、「静養」という同じ言葉だけが添えられている。書かれた筆跡は、それぞれ違う担当者のものらしく、少しずつ癖が異なっていた。だが、使われている言葉は、判で押したように同じだった。
「三人……この帳簿の中だけで」
「もっと古い帳簿にも、あるかもしれない」
僕たちは、別の帳簿も開いてみた。だが、それより古い記録は虫食いや水濡れで判読できないページが多く、はっきりとした記述は見つけられなかった。それでも、破れかけたページの端に、同じ「静養」という文字の切れ端がぼんやりと残っているのを見つけた。
「静養したあと、その人たちは、どうなったんだろう」
僕がそう呟くと、リゼは少し困ったような顔をした。
「戻ってきたっていう記述は、どこにもないよね」
「うん。どのページにも、続きがない」
僕は、記録帳の該当ページを指でなぞった。三人の名前の後、そこで文章そのものが途切れているように見える。まるで、その先に何かがあったはずなのに、誰かが意図的にそこで筆を止めたかのように。
紙の質感を確かめるように、指の腹で表面をなぞってみた。破れているわけでも、汚れているわけでもない。ただ、次の行に書かれるはずだったものが、最初から存在しなかったかのように綺麗に何もない。その綺麗さこそが、僕にはむしろ不自然に思えた。
「これって、偶然かな」
リゼが、静かに聞いた。
「分からない。でも――」
僕は、記録帳を閉じながら、頭の中でこれまでの断片を並べ直していた。三十年前の氾濫の"処理済み"という注記。トビンの祖父の「お前だけじゃない」という言葉。そして、この帳簿の三つの空白。
一つひとつは、まだ、証拠と呼べるほどのものではない。それでも、それらが同じ方向を指しているような感覚が、確かに胸の中で育っていた。
「もう少し、調べてみる」
僕がそう言うと、リゼは資料室の入り口をちらりと見た。
「フェインさんが来る前に、片付けよう」
「うん」
僕たちは帳簿を元の位置に戻しながら、最後にもう一度、あの空白のページを見た。
名前は、確かにそこに残っている。だが、その先に何があったのかは、どこにも書かれていない。まるで、誰かが村から消えたことだけを記録し、それ以上の真実には蓋をしたかのように。
「三人分の名前、覚えておく」
リゼが、そう言って小さな紙にそれぞれの名前を書き取った。
「なんで?」
「もう一度、確かめたくなったとき、記録帳を探し直さなくて済むように」
その用意周到さに、僕は少し笑った。
「リゼ、そういうところ、僕より探偵っぽいよ」
「教えてくれたのは、ノアだよ」
そう言いながら、リゼの手が、書き取った紙の上でふと止まった。
「そういえば、これ気になるんだけど。名前の欄の横に、小さく別の字で"立会:〇〇"って一言だけ書かれてる行と、何も書かれてない行があるね」
僕は、その指の先を覗き込んだ。確かに、三人のうち一人だけ、名前の脇にごく小さな添え書きがある。残り二人には、何もない。それが何を意味するのか、今はまだ分からなかった。だが、その差が偶然ではない気がして、僕はその違いだけを紙の端に書き留めておいた。
そのとき、扉の外から、近づいてくる足音が聞こえた。聞き慣れたフェインの歩き方だった。名主の家の用が、思っていたより早く片付いたらしい。
「――まずい」
リゼが小さく声を漏らした。僕たちは残りの帳簿を大急ぎで木箱に押し込み、蓋を閉めた。埃が舞い、喉の奥がちりちりする。
扉の外で、鍵番の老人の声が聞こえた。
「おや、名主様。もうお戻りですか」
「用が、早く片付いてな」
「そうですか。こちらも、ちょうど今、片付いたところですよ」
老人の声には、動じた響きがまるでなかった。僕たちは、何事もなかったような顔を作った。扉が開き、フェインが顔を出したとき、僕の心臓は、まだ少し速く鳴っていた。
「熱心だな、二人とも」
フェインは、それだけ言って部屋の中をざっと見渡した。何も、気づいた様子はなかった。
僕たちは、木箱の並びを整え直しながら、フェインが用件を鍵番の老人に告げて名主の家へ戻っていくのを見送った。足音が遠ざかると、リゼが小さく息を吐いた。
「今の、危なかったね」
「うん。でも、見つからなかった」
外に出ると、空の位置は、まだ高い。だが、その空白の重さが、これまで見てきたどの物証よりも僕の中にはっきりとした違和感を刻んでいた。
「三十年前の氾濫の記録と、この空白、繋がりがあると思う?」
リゼが、歩きながらそう聞いた。
「分からない。でも、両方とも"処理"とか"静養"みたいな、言葉を濁す言い方が使われてる。それだけは、確かに似てる」
「言葉を濁すっていうのが狙ってやってることだとしたら」
「うん。誰かが、そうやって書くように決めてるのかもしれない」
僕たちは、村の細い道をしばらく黙って歩いた。夕方の光が、家々の壁をいつもより濃い橙色に染めている。
「トビンに、この三人のこと、話す?」
リゼの問いに、僕は少し考えてから頭を振った。
「まだ話さない。何かもっと分かってから、伝えたい。今のままだと、トビンをただ不安にさせるだけになる」
「うん、そうだね」
資料室を出るとき、僕はもう一度木箱の並びを振り返った。表向きは、単なる過去の記録が眠る埃っぽい部屋だ。だが、その中の一冊一冊に、まだ誰も気づいていない空白がいくつも隠れているのかもしれない。そう思うと、この部屋そのものが村のもう一つの顔を持っているように見えてくる。
「あの中に、あと何人分の名前が眠ってるんだろう」
僕がそう呟くと、リゼが隣で頷いた。
「分からない。でも、次はきっと、あの人が来る前に、もう一段先まで知りたい」
「うん。今度は、僕から」
リゼは、それだけで十分だというように、小さく笑った。
古い記録を辿る回でした。次回も、よろしくお願いします。




