「お前だけじゃない」と祖父は呟いていた
日はもう完全に落ちていた。木の根元に並んで座る三人の間に、それでも、立ち去ろうとする気配はなかった。虫の声だけが、いつもより大きく聞こえる。風に乗って、遠くの家の灯りが小さく揺れていた。
「ねえ、トビン」
リゼが、その静けさを破るように静かに口を開いた。
「その面談、いつからそんな感じなの?」
トビンは、少し驚いたような顔をした。踏み込んだ質問だと分かっていたのだろう。それでも、逃げるように視線を逸らすことはしなかった。
「……目覚めの儀のあとから、ずっとだよ」
「毎回?」
「毎回。最初は、ただの健診だと思ってた。でも、聞かれることが、だんだん変わってきて」
トビンは、両膝を抱え直した。
「眠ってるとき、変な感じがしないか。目が覚めた瞬間、誰かに見られてる気がしないか。あと――」
言葉が、そこで一度、止まった。
「言いにくいなら、いいよ」
僕がそう言うと、トビンは、小さく首を振った。
「……ううん。言う。俺、ずっと誰にも言えなかったから」
その言い方に、僕は思わず姿勢を正した。誰にも言えなかったという言葉の重さが、これまでの短いやり取りの何倍もの実感を持って耳に残った。
「耳の後ろを、指でなぞられるんだ。何か確かめるみたいに。痣とか、傷とか、そういうのを探してる感じで」
「痣?」
「分からない。俺には、何もないと思うんだけど。オーレンさんは、いつも何もないことを確認してほっとしたような顔をする」
トビンは、そこで一度、膝の間に顔を伏せた。
「あと……夜中に、誰かが自分の名前を呼んでる気がして、飛び起きることがある。窓の外を見ても、誰もいない。それも面談で話したら、オーレンさん、いつもより長く俺の顔を見てた」
その言葉に、僕の頭の中で記録帳の一行が、また静かに動いた。三十年前の氾濫。処理済み、という短い注記。
僕は自分がどれだけ長く誰にも言えない感覚を抱えてきたかを、ふと思い出していた。井戸の水位が下がったことに気づいたときも、村長の帳簿の違和感に気づいたときも、最初はずっと一人で抱えるしかなかった。トビンの「誰にも言えなかった」という一言は、その頃の自分の姿と、驚くほど重なって見えた。
「トビン。前にも、"無ノ子"って呼ばれた人、いたのかな」
僕がそう聞くと、トビンは、しばらく考える顔をした。
「……分からない。誰も、そんな話しないから」
「うん、そうだよね」
「でも」
トビンが、ふと何かを思い出したように言葉を継いだ。
「じいちゃんが、一回だけ言ってたことがある。俺が儀式に落ちたって聞いたとき、じいちゃん、すごく変な顔したんだ。悲しそうっていうより、何か思い出してるみたいな顔」
「何を?」
「分からない。ただ、"お前だけじゃない"って小さく呟いてた。それ以上は、何も言わなかった。俺が聞き返したら、急に話をそらして、庭仕事の続きに戻っちゃって」
その一言が、静かな夜の中に、確かな輪郭を持って落ちた。
僕とリゼは、思わず顔を見合わせた。
「お前だけじゃないって……」
「うん。俺も、意味は分からない。でも、あのときのじいちゃんの顔は今も覚えてる。すごく古い記憶を掘り返してるみたいな顔だった」
トビンは、そこで一度、言葉を切った。
「じいちゃん、それを言ったあと、すぐに『忘れてくれ』って付け加えたんだ。でも忘れられるわけないだろ、あんな顔見せられて」
トビンはそう言って初めて、自分から膝の位置を少しだけ僕たちの方に寄せた。ほんの数センチだったが、それが彼にとってどれほどの距離だったか、僕には分かる気がした。
「……今まで、誰にも、こんな話したことなかった」
「話してくれて、よかった」
僕がそう言うと、トビンは少しはにかんだように視線を落とした。
「別に大した話じゃないだろ」
「大した話だよ。トビンが、初めて自分から話してくれたんだから」
リゼが、そう言って柔らかく笑った。トビンはそれには何も答えず、ただ小さく頷いた。
三人の間に、これまでとは違う、静かな温度の空気が流れていた。誰かが無理に埋めようとしていた沈黙ではなく、自然に居られる沈黙だった。
「じいちゃんに、聞いてみようかな。今度、ちゃんと」
トビンが、そう呟いた。声には、まだ迷いがあったが、確かに前向きな響きがあった。
「うん。僕も、一緒に聞いてみたい」
「……いいけど。変なこと聞き出すの、得意そうだもんな、お前」
トビンの口元が、今度こそはっきりと動いた。それは、儀式の日から今まで僕が見た中で一番、彼らしい表情だった。
その夜、僕たちは、それ以上多くを話さずに別れた。だが帰り道、リゼがぽつりと言った。
「じいちゃんの言葉、気になるね」
「うん。"お前だけじゃない"――トビンより前に、同じことが、あったってことだよね」
「過去にも、いたのかな。無ノ子って呼ばれた人が」
「多分。でも、どこにも記録が残ってない気がする」
僕は、そう言いながら、村の古い記録帳のぎっしりと詰まった文字の並びを思い出していた。あの中に、答えの断片が、まだ見つからないまま眠っているのかもしれない。
「調べてみようよ」
リゼが、そう言って僕を見た。いつもの明るさとは少し違う、静かな決意が、その目にあった。
「うん。今度は、獣の周期じゃなくて、別のものを探す」
明日は、もう一度、あの記録帳を開いてみよう。そう決めた瞬間、これまで積み重ねてきた小さな違和感の一つ一つが少しずつ意味のある形に結ばれ始めている気がした。
「今日、トビンの話、聞けてよかったね」
リゼが、家の分かれ道の手前でそう言った。
「うん。無理に聞き出したわけじゃなくて、トビンが自分で話してくれたのが、よかったと思う」
「わたしも、そう思う。あの子、ずっと一人で溜め込んでたんだろうね」
僕たちは、しばらくそこで立ち止まっていた。夜風が、少し冷たくなっている。
「じいちゃんの言葉の続きが分かったら、また三人で話そう」
「うん。おやすみ、ノア」
「おやすみ」
リゼが自分の家の方へ歩き出すのを見送りながら、僕はトビンが今夜初めて自分から開いてくれた扉の分だけ、僕もまた彼のために何かを見つけなければならない――そんな思いを静かに胸の中に据えた。夜風は、まだ少し冷たかったが、不思議と足取りは軽かった。
トビンの心が、少しだけ開いた回でした。次回、続きます。




