誰も座らない場所に、彼はいつもいた
それから、五日が過ぎた。
灯火祭の氾濫からの復旧はほとんど終わり、村はいつもの落ち着きを取り戻していた。畑の手入れ、家畜の世話、井戸端の笑い声――そうした日常が、少しずつ当たり前の速さで流れ始めている。
けれど、トビンの周りだけは、時間の流れ方が違っていた。
「トビン、また一人で座ってる」
カイルが、共同炊事場の裏手を指してそう言った。同期の子供たちが集まる場所から、少し離れた木の根元に、トビンがぽつんと腰を下ろしている。
「儀式の後から、あんな感じだよな」
「話しかけてる奴、見ないもんな」
カイルの声には、悪意はなかった。ただ、他の子供たちと同じように、どう扱えばいいのか分からず、距離を置いているだけのようだった。
僕は、その光景を、何度も見てきた。共同炊事場の裏、井戸端の隅、鐘楼の陰――トビンがいる場所は、いつも人の輪の外側だった。
誰かが意図して避けているというより、誰もが自然に、そこを避けて通るようになっていた。まるで、そこに近づくと自分にも同じ"何か"が伝染するのを恐れているみたいに。
詰所の前を通りかかったとき、ダレンが、片方の腕をまだ布で吊ったまま、遠くのトビンを眺めているのに気づいた。
「あいつ、大丈夫なのか」
「分からない。誰もあまり近づかないみたいで」
「……名主の息子だからって、あいつの家に何かしてやれることもないしな」
ダレンは、そう言って少し歯切れの悪い顔をした。以前なら、村の権威構造の側に立って、無ノ子など気にも留めなかったかもしれない。それが今、こうして気にかけている――その変化も、灯火祭の夜がダレンの中に残した小さな痕跡なのだと、僕は思った。
「もし、何かできそうなことがあったら教えてくれ。俺にできることなら、やる」
「うん。ありがとう」
その申し出は、大きな解決策ではなかった。それでも、少しずつ村の空気が動いているという実感が、僕の中に静かに積もっていった。
数日後、トビンの家の前に、名前の書かれていない乾物の包みが置かれていたという話を、リゼから聞いた。届けたのが誰なのか、トビンの両親も分からなかったらしい。だが、荷の縛り方に、見覚えのある癖があった。
「あれ、多分ダレンだよ」
リゼが、そう言って小さく笑った。僕も、同じ考えに辿り着いていた。名主の息子が、名前も出さずにそんなことをするなんて、以前の彼なら考えられなかった。
「無ノ子の子と、あんまり一緒にいると運が落ちるって聞いたことある」
ある日、水汲みの列で、小さな女の子がそう言うのを耳にした。誰かに教えられたのだろう。悪意のない、無邪気な言い伝えの口調だった。
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥の棘が鋭く疼いた。運が落ちる、という理由には、何の証拠もない。ただの言い伝えが、人と人の距離をこんなにも簡単に決めてしまう。
六歳の頃、僕が井戸の水のことを口にしたときも、似たような空気があった。誰も、僕を明確に責めたわけではない。ただ、少しずつ輪の外側に置かれていった。あの感覚を、僕はよく覚えている。
だが、トビンのそれは僕よりもずっと重かった。僕には、まだリゼがいた。カイルも、悪気なく茶化しながらも離れていくことはなかった。トビンには、今、誰もいない。
「ノア、また考え事してる」
リゼが、隣で僕の顔を覗き込んだ。
「うん……トビンのこと」
「わたしも、気になってる。でも、どう声をかければいいのか分からなくて」
「僕も同じ」
僕たちは、しばらく黙って遠くのトビンの姿を見つめた。今日も、同じ木の根元に座り、膝を抱えている。
「ずっとあのまま?」
「多分。誰も、話しかけようとしないから」
「オーレンさんとの面談、まだ続いてるみたいだね」
リゼの言葉に、僕は頷いた。トビンの家の前を通ったとき、オーレンが訪ねてきているのを、何度か見かけた。面談の時間は、他の同期のときよりも、ずっと長いように見えた。
「体調のことだって、言ってたよね」
「うん。でも……」
僕は、その言葉をうまく続けられなかった。あの日、オーレンの目に浮かんでいた色を、僕はまだ言葉にできていない。ただ、単なる健診には見えなかった、という感覚だけが胸の中に残っていた。
数日、僕はその感覚を抱えたまま、様子を見ていた。トビンが誰とも話さないまま、日々が過ぎていく。声をかけようと思っても、いざその場に立つと、言葉が出てこなかった。
自分に何が言えるのか、分からなかったからだ。僕には、まだ隠している力がある。トビンには、何もない。その差が、あまりにも大きくて、下手な言葉をかければ余計に彼を傷つけるかもしれない――そんな恐れが、僕の足を止めていた。
一度だけ、思い切って近づいたこともあった。だが、木の根元まで数歩というところで、トビンがこちらの気配に気づき、逃げるように立ち上がって家の方へ歩いていってしまった。追いかける勇気も、呼び止める言葉も、僕にはなかった。あの後ろ姿を見送ったまま、その日は何もできずに終わった。
でも、それは、六歳のときの僕を放っておいたあの村の大人たちと、同じことをしているのではないか。
その考えに気づいた瞬間、僕は自分の中の何かがはっきりと動くのを感じた。
「ノア?」
リゼが、僕の顔を見て少し驚いたように言った。
「行ってみる」
「今?」
「うん。今、行かないと、多分ずっとこのままになる」
僕は、共同炊事場の裏手に視線を向けた。トビンは、まだ同じ場所に座っている。夕暮れが近づき、影が長く伸びていた。
「わたしも行く」
「うん」
リゼが、当たり前のようにそう言ってくれたことが、思っていたよりも僕の背中を押した。一人では、まだ迷いが残っていたかもしれない。だが、二人ならその迷いを少しだけ振り切れる気がした。
胸の奥の棘は、もう痛みではなく、確かな熱を伴って疼いていた。片目が、自然と細くなる感覚がある。ただ今回は、何かを見抜くためではなく、何かを決めるための疼きだった。
僕たちは、木の根元の方へ足を進めた。近づくにつれ、トビンの背中が、こちらの気配に気づいたようにわずかに動いた。
けれど、逃げようとはしなかった。ただ、身を固くして、次に起こることをじっと待っているようだった。
その反応の小さささえ、これまで彼がどれだけ多くの視線に身をすくめてきたかを物語っているようだった。
僕は、その背中に向かって一歩ずつ、近づいていった。
リゼの「うん」一言に、支えの強さを込めました。読んでいただきありがとうございます。




