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無ノ子と呼ばれた日

あの氾濫の夜から、ひと月が過ぎた。


村はもう、いつもの静けさを取り戻している。その日も、空はよく晴れていた。


十五歳の儀式の日には決まって晴れる、という言い伝えを、僕はもう何度も聞いてきた。ダレンの時も、他の同期の時も、確かにその通りだった。今日も例外ではないらしい。


けれど、広場の様子は、いつもよりずっと静かだった。


名主の息子であるダレンの儀式の日には、旗が張られ、花が飾られ、村中が浮き立っていた。今日は、その半分にも満たない飾りが、控えめに広場の隅に置かれているだけだった。


自衛団の中にも、噂を耳にした者がいるのか、いつもより人の出足が少ない。見張りの合間に顔を出す程度で、儀式そのものを見届けようとする者は多くなかった。


「トビンの家、そんなに大きくないから、こんなものなのかな」


リゼが、小さな声でそう言った。


「うん……でも、それだけじゃない気がする」


僕は、集まった人の数をそっと数えた。トビンの両親と近所の数人、それに僕とリゼ、カイル。ダレンの時に集まった人数とは、比べものにならない少なさだった。


儀式は、いつもと同じ石の壇上で行われた。調律士オーレンが、丁寧な布に包まれた聖具を取り出し、壇の上に置く。


「トビン・ハーロウ。アイオスの恵みを受け取るときが来た」


オーレンの声は、以前と変わらず、穏やかで淡々としていた。


トビンは、壇の前に立った。肩が、少しだけ震えているのが見えた。


「……はい」


小さな声で答えると、トビンは聖具にそっと手を伸ばした。


村人たちの視線が、一斉にその手に集まる。指先が、器の表面に触れた。


何も起こらなかった。


静寂が、広場に落ちた。誰も声を上げない。オーレンが、もう一度器に手を添え直す。


微かに、器の中心が頼りない光を放った。だがそれは、ダレンのときのような、体を包む輝きにはならなかった。淡く、揺れながらすぐに消えていく。


「もう一度」


オーレンが、静かにそう言った。トビンは、また手を伸ばした。同じように、頼りない光が一瞬だけ揺れ、そして消える。


三度目も、四度目も、結果は変わらなかった。


「……これで、終わりですか」


トビンの声は、震えていた。オーレンは、しばらく器を見つめたまま、答えなかった。


「今日は、これで十分だ。よく頑張った」


その言葉は、慰めというより、何かを打ち切るような響きに聞こえた。


広場の空気が、はっきりと変わった。誰も拍手をしない。誰も、おめでとうと言わない。ただ、居心地悪そうな沈黙だけが、そこにあった。


「……無ノ子か」


近くにいた誰かが、そう呟いた。小さな声だったが、静かな広場の中では、それだけで十分に響いた。


「本当に何も出なかったのか」


「三度も、四度も試したのに」


そんな囁きが、あちこちから小さく漏れてくる。誰も、はっきりと声を荒げるわけではなかった。ただ、その静かな囁きの積み重ねだけで、広場の空気は十分に重くなっていった。


その一言をきっかけに、村人たちがぽつぽつと散っていく。誰も、トビンの方を見ようとしない。まるで、見てしまうと、自分にも何かが伝染するかのように。


トビンの母親が、震える手で息子の肩を抱いた。父親は、何も言わず地面を見つめている。二人とも、慰める言葉を探しているようだったが、見つからないようだった。


僕は、その光景を、少し離れた場所から見つめていた。胸の奥で、棘が、いつもとは違う場所を突くように疼いた。


自分は、儀式さえ受けていないのに、既に力を持っている。トビンは、正式な儀式を受けて、それでも何も得られなかった。同じように「当たり前」から外れているのに、その中身は、まったく逆だった。


一方は、望んでもいないものを先に手にした。もう一方は、望んだものを何ひとつ手にできなかった。


その落差が、あまりにも不公平に思えて、僕は思わず拳を握った。


「オーレンさん」


僕は、思わず声をかけた。オーレンは、聖具を布に包む手を止め、こちらを見た。


「ノアか。何か用か」


「あの……トビンは、もう一度機会があるんですか」


オーレンは、僕の顔をしばらく見つめていた。その目には、いつもの穏やかさの奥に、何かを測るような硬さがあった。


「儀式は、一度しか行えない。それが、決まりだ」


「決まりって……誰が決めたんですか」


「昔から、そう決まっている」


その答えは、これまで村の誰もが繰り返してきた、あの言い回しと同じだった。理由を語らず、決まりだからと言い切る、あの言い方。


オーレンは、それ以上は何も言わず、聖具を包み終えると、トビンの両親の方に歩いていった。何かを小さく話しているのが見えたが、距離があって、内容までは聞こえなかった。ただ、オーレンの声のトーンが、ほんの少しだけ、いつもより丁寧すぎるように感じられた。


「面談を、いつもより長めに取らせてもらいたい。体調のこともあるからね」


その一言だけが、風に乗って僕の耳に届いた。トビンの母親は、戸惑いながらも、小さく頷いていた。


僕は、その言葉の意味をうまく掴めなかった。ただ、体調の確認というだけの言葉には聞こえなかった。オーレンの目が、トビンの方をちらりと見た瞬間、そこに浮かんでいた色を、僕はまだ名前をつけられなかった。


「ノア、行こう」


リゼが、僕の袖を引いた。


「……うん」


僕たちは、広場を離れる村人たちの流れに、しばらく紛れていた。振り返ると、広場の隅で、トビンが一人うずくまるように座り込んでいるのが見えた。両親は、オーレンとの話が終わらず、まだ少し離れた場所にいる。


誰も、トビンに声をかけない。祝いの言葉も、慰めの言葉も、誰の口からも出てこない。


僕は、その光景を見て、六歳の頃の自分をふと思い出した。井戸の水のことを口にして、誰からも取り合ってもらえなかった、あの日のことを。


あの頃の僕には、まだ「疑い病」というあだ名がついたくらいで済んだ。トビンには、名前すらついていない。ただ、「無ノ子」という、何も持たないことそのものを示す言葉だけが、後ろにぴたりと張り付いていた。


トビンの孤独は、僕のそれよりも、ずっと深いものに見えた。


「リゼ……」


「うん。分かってる」


リゼは、僕が何を言おうとしているのか、それだけで察したようだった。


「今日は、まだ声をかけない方がいいと思う。ご両親もいるし……でも」


「うん。今日じゃなくてもいい」


僕たちは、広場の隅にうずくまるトビンの姿を、しばらく見つめていた。誰にも見られていないと思っているのか、その背中はひどく小さく見えた。


胸の奥の棘が、静かに、だが確かな重さで疼き続けていた。この疼きが、いつもの違和感とは違う種類のものだと、僕はうっすら気づいていた。

トビンのことは、早めに書いておきたかった話です。

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